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2015/08/20

日常系という語が如何に最悪かについて

最近日常系アニメという言葉をよく目にする。言うほど最近でもないだろう。
どうやらこの言葉は劇的なアクションが起こらない日常を女の子たちが仲良くたわむれる様を描いた作品を指す言葉らしい。
はぁーっ……。本当に馬鹿馬鹿しいと思う。最悪すぎる。この言葉を考えた奴とそれを得意げに使ってるオタク共は全員今すぐ首を吊って死んで欲しい。
そもそもじゃあ何で僕がこの言葉を嫌いなのかというと、真実から言えばオタクが嫌いだからだ。分かるか? 分かってない奴に向けてこれから説明しようじゃないか。

それではまずは日常系アニメという語の非合理性からだ。これは言うまでもないだろう。意味がなさすぎる上に侮辱的だ。アニメをラブコメだ熱血モノだと分類する行為自体はまだ理解できるが(視聴者がどのアニメを視聴するかの判断基準になりうる為)、日常系とはなんだ? ええ?
僕の知ってる限りでは日常系とは「劇的なアクションが起こらない日常を女の子たちが仲良くたわむれる様を描いた作品を指す」言葉らしい。
しかしな、ハッキリと言わせてもらうぞ。そんな作品はこの世のどこにも存在しないんだよ。

けいおん!は等身大の女子高生の部活動を描いたスクールアニメだし(だからこそ更にリアルに接近していこうと試みた蛸壺屋がウケた)、GJ部は1人の高校生が大好きな先輩たちとの別れを受け入れられるようになるまでを描いた感動大巨編だし、らき☆すたは当時オタクへの風当たりが厳しい中でオタクの主人公がオタクじゃない友達と、オタクの友達と区別なく和気あいあいと生活するさまを描いて当時のオタクに勇気を与えてみせた。Aチャンネルは毎話何かしらのハプニングやイベントが起こり、それを挿入歌を流しながら気持ちよく乗り切ったり過ごすというミュージカル的な演出で平坦に見える日常を違う角度から照らしてみせた。のんのんびよりは田舎/都会の対比を軸にまだ物をあまり知らない少女たちがまだ見ぬ人や自然との出会いに心を煌めかせる様をギャグのテイストを中心に描いた作品だ。ご注文はうさぎですか?は依然の記事にも書いた通り、知ってるものや人が全くいない空間の中に1人で飛び込み、友達を得るというまさしく冒険活劇と言っても差し支えないような内容になっている。詳しくはリンク先を見ていただきたいhttp://burningmelodysection.blogspot.jp/2014/07/blog-post_8.html
 
ゆゆ式は言うまでもなく3人の「みんなをもっと楽しませたい!、楽しみたい!」という愛にあふれる強烈なエネルギーが生活に反映されてく様を描いた「今は楽しい!」という絵を我々は徹底的に見せつけられるわけだ。それを見た私は、その楽しい光景が自分のことのように感じて、嬉しくなってしまう。

ファンタジスタドールというアニメに「いつもみんな一緒」という曲にこんなフレーズがある。


なにか良かったこと チョットでもあったなら
心にしまわないで みんなで分ち合おう
嬉しい時 私たち喜んであげるよ














良い歌詞だ。本当に良い歌詞だ。
ファンタジスタドールというアニメを、いや少女たちの物語の全ての尊さを全身全霊で歌い上げている。有史以来かつてこれほどまでに人の心を打ち、また核心に迫った曲があっただろうか? いや、ない(反語)

そうなのだ、アニメの中のキャラクターが嬉しい、楽しい時、それを見ている私も喜ばしいのだ。
その「楽しい!」という猛烈なエネルギーを真摯に描いた大傑作アニメ「ゆゆ式」、BD絶賛販売&レンタル中。原作は大好評でまんがタイムきららに連載中。単行本はまんがタイムKRコミックスから既刊7巻が発売中だ!


話がそれた。記憶を少し前に戻してみて欲しい。先ほど私が例に上げた、俗に「日常系」と言われるアニメは当然ほんの一部だ。実に様々な物語がある。アニメの数だけ全く固有の史観があり、世界がある。当たり前だ。人間1人1人は全く固有の人生を歩み誰一人として同じ者はおらず、その全く固有の史観を持つ人間が新たにキャラクターを生み出すのだ。1つとして同じものがあってたまるか。私は全人間、全キャラクターの人生の固有性、独自性に敬意を払っているつもりだ。

しかし、しかしだ。あろうことか下賤で野蛮で幼稚で陰湿で悪質なオタク共はこれら全く1つ1つが異質の宝石のような輝きを放つ物語群を「日常系」の一言で封じ込め、「日常系とかみんな同じようなもんだろ? ツマンネーw」とか、「日常系は小動物を観察するような快感ガ~」とか、「まーた美少女動物園か。泥臭い作品ほんとなくなったよなーw」
等のような戯言をぶち撒いているのだ。正直言ってこれを書いてる時点でもう血管がプッツリいきそうだ。我ながらよく我慢したと思う。 さて叫ばせてもらおう。


人間を侮辱するのもいい加減にしろよクズ共ッ!!!
彼女たちは日々を懸命に生き、その固有の歴史に歩を進めている!!
それは綺羅びやかで、何者にも変えられない、見ているだけでこちらが笑顔になりそうな黄金の日々だ!
その日々を描いた作品を!  テメェらのような見もせずネットの雲散から拾っただけの価値の無い言葉で断定し、何かを否定して自分の価値観を肯定しようとするその薄汚い腐った根性!
何一つ固有の誇れるものを持たず! 人が一生懸命築き上げた物を馬鹿にして皮肉るしか脳がない貴様らに独自性もなければ固有性などありはしない!
ゴミだ! 真性のゴミクズだ!!
即刻くたばれ! 二度と口をつぐむな! わんこーる速報死ね

わんこーる速報死ね(大事なことなので二回言った)


話を戻そう。そもそも日常系に限らず僕は分類とかカテゴリー分けみたいなものが大ッ嫌いだ。何故ならそのレッテルをかざしてあることないこといい加減なことを分かった風にばらまく奴らが絶えないからだ。
ゼロ年代とかセカイ系とか日常系とか全部大嫌いだよ俺は。それにまつわる議論をする奴らも全部脳タリンのクソ野郎だ。
テメェらは時代だ分類だと論じる前に1つの作品と真摯に向き合え。その固有性を見出し賛辞しろ。何もかも分類でくくろうとしてるんじゃねぇぞ。


カテゴリー分け、レッテル貼りなら全部嫌いで、男だ女だ30億人以上いるもんを一概に括ろうとするケースの馬鹿馬鹿しさは言うまでもないだろう。
じゃあ30億人以下なら良いのかというと当然そんなことはない。
黒人白人黄人中国人韓国人だの朝鮮人だの学歴がどうの出身地がどうののレッテル貼りは全部くだらない馬鹿のお得芸だし、そんなこと多少なりとも常識なり良識がある人間はまずやらない。
さっきも言ったが別に人間の数の問題じゃなく、1人の固有の人生を共同体だのレッテルで人間性を決めつけようとする吐き気をもよおす邪悪さが癇に障る。

別に僕はそんな問題提起をしたいわけじゃなく、こういうクソくだらねぇゴミクズみたいな自意識を日常系だのセカイ系だのと言った言葉を使ってオタク界に持ち込んで悦に浸ろうとするゴミみたいなオタクがこの世には大勢居て、そういうクズの自意識が特にネットでは多く散見され僕の愛好する作品群が侮辱されていくのは辛いという話です。

分かったらさっさと日常系とかいう最悪すぎる語を、しかも差別的に用いるのはやめろ。
美少女動物園と揶揄して作品を馬鹿にするお前の姿は畜生の臓物よりも汚らしい。



こういうことを言うのはダメだと分かっててもあいつらは増長を止めないから仕方ない。

日常系アニメを30分見るのは辛いから5分アニメにして欲しいという意見に対してのツイートでした。

2015/07/24

シンデレラガールズ 妄想カバーセトリ

「シンデレラガールズの女の子たちにこの曲を歌ってもらいたい……」
誰もが一度はそんな妄想をしたことがあるだろう。
琵琶湖一周中にそんなことを考えた私はツーリングを放っぽりだしてセットリスト妄想にふけっていた。

GET THE WORLD(影山ヒロノブ)安部菜々


あべななさんじゅうななさい
という恒例のネタは置いておいて、安部菜々さんの実年齢は個人的には23~26歳だと思っていて、その年代にクリティカルヒットするであろうGET THE WORLDをチョイスしてみた。
安部菜々さんならおそらく一番手を切って全力で熱唱してくれるだろう。
僕はソニックセイバー派です


銀河旋風ブライガー(たいらいさお)赤城みりあ


ナレーションのカッコよさ、OPの作画レベルの高さ、本編作画の残念さで有名な銀河旋風ブライガー。
実はこのアニメ、日本で初めてナニのシーンが描かれた作品であり、そういう意味でも赤城みりあさんは適役なのではないだろうか。
世界は赤城みりあさんのはじめてのチュウのカバーを待っているぞ。


真夏のシューメーカー(THE PINBALLS)神崎蘭子


最初神崎蘭子さんの曲はWHITE ASHのCloudsにしようかと思ったのだが、アレは歌詞をあえて空っぽの意味不明にして、何も小難しいことは考えず雰囲気に浸ってくれ! という曲なので、ちゃんと世界観と向き合って考え込んだ上で自分の結論を曲に持っていった神崎蘭子さんにはそぐわないかな、と思った。
そうして白羽の矢を立てたのがTHE PINBALLSだ。
私はTHE PINBALLSのファンだ。
 

しかしこの真夏のシューメーカーも歌詞の意味が理解できるわけじゃない。ハッキリ言って何を言ってるのかサッパリ分からん。
しかし退廃的な情景と熱いパッションは伝わってくるのだ。
ちゃんと世界が「ある」曲なのだ。



アイスクリーム シンドローム(スキマスイッチ)渋谷凛


これに関してはあまり語る必要はないんじゃないだろうか。
私は渋谷凛さんがアイスクリーム シンドロームを歌っている光景を想像しただけでボロ泣きしてしまうので。


daze(じん ft. メイリア from GARNiDELiA)渋谷凛


えぇー、まず先に1つ。
散々メカクシティアクターズがクソアニメだ煽られましたけど私はそうは思いません。
確かにカゲロウデイズというコンテンツ自体はどうしようもないアホ中学生がハマる現実逃避コンテンツですけれども、カゲロウデイズはその現実逃避に極めて真摯に向き合っていて非常に好ましい作品群だと考えます。
アニメも曲の内容を聞いてキャラを知らないとストーリーがまるで理解できないという欠点はありましたし、作画のレベルは酷い。単純に物語として面白く無いという凄惨な有り様でありましたが、しかし、高校生たちが夏を過ごす物語として捉えた時、あの作品は光り輝くものであると信じて疑いません。
あとメカクシティアクターズの夏の描写は数あるアニメの中でもトップクラスなんじゃないだろうか。
そういう意味でも、夏感が満載された素晴らしいアニメだと思いますね。
バカには分からんでよろしい。


その代表的な曲がこのdazeでしょう。
つーかカゲロウデイズ言っといてなんですけど私はこのdazeぐらいしかまともに聞いたことがないのでdazeぐらいしか語れる曲が無いんですけどね(大爆笑)

意味がない意味深な詩から始まり、「最終話」「最終日」のようなコンテキストを知ってないと伝わりづらい語を持ってくる。
そこからは現実逃避オタクを焚きつけるような熱い歌になるという内容。まさにカゲロウデイズというコンテンツを体現している、カゲロウデイズそのものを表した曲だと言ってもいいでしょう(適当)



夢の恋人(NONA REEVES)本田未央


クッソ寛大なNSDR兄貴の紡ぐ優しく包み込むような浮遊感を与えてくれるメロディをちゃんと聞いて、たった1度の失敗でネチネチと粘着する未央アンチは感銘を受け首を吊りなさい。


劇場支配人のテーマ(THE PINBALLS)新田美波


再度THE PINBALLS。

ハマってるからしゃーない。
新田美波さんは落ち着いた曲よりも、やはりこういう退廃的でどこか熱い曲のほうが似合うんじゃないかと思いますね。

あっ、そうだ(唐突)
劇場支配人のテーマのFullが収録されたコンピレーションアルバム「ニンジャスレイヤー フロムコンピレイシヨン『忍』は7月22日に発売だゾ



砂塵の彼方へ(Revo & 梶浦由記 )LOVE LAIKA(アナスタシア&新田美波)


武内Pにも参加して欲しいですね


異邦人(久保田早紀)島村卯月


僕の中では異邦人といえば島村卯月さんのイメージしかないですね。
この原曲も久保田早紀じゃなくて島村卯月さんが歌っているんじゃないだろうか。

歌詞を鑑みると天海春香さんが歌っても似合いそうだ。
少なくとも蒼い鳥よりかは断然似合っている。


余談、中森明菜の異邦人カバーはやる気なさすぎで笑ってしまった。

ぶちぬけ!2008! (初音ミク doriko)緒方智絵里


正直シンデレラガールズ1期での緒方智絵里さんは影が薄すぎてどんなキャラかつかめず、どの曲が似合うのか悩みに悩んだ。
CANDY ISLANDの様なふわふわかわいい路線で行くか、蒼い鳥のような重い路線で行くかで迷ったが、最終的にはぶちぬけ!2008という、ふわふわしつつも突貫力のある曲を選んだ。
緒方智絵里さんにこの曲が似合っているかどうかはともかく、ぶちぬけ!2008を歌っている緒方智絵里さんはカッコいいんじゃないだろうか。
間違いなくカッコいいと思う。


DAYS(FLOW)*(Asterisk)(前川みく&多田李衣菜)







風の辿り着く場所(彩菜)双葉杏



kanonのEDとして有名な名曲。

名曲……なのだが、この曲には罠がある。
それは後半で挿入されるラップ。これが意味の分からない英語の歌詞を高速で歌わなければならないという異常な歌唱難易度を誇っており
「ヨッシャー、kanonのEDでも歌うかーw」と軽い気持ちで挑んだオタクの面をへし折ってくれる。
このラップが歌えないとオタクは実に恥ずかしい思いをするのだ。
このラップが歌えるオタクはオタク内カーストの頂点に立つのだ。
歌えるようになるのは結構が骨が折れるが……。

しかし、アイドルマスターシンデレラガールズには我らがラップ女王双葉杏さんがおられるので、この難しすぎるラップパートも見事に歌唱してくれるだろう。

ちなみにこのラップ、素材集からの引用を挿入しただけである。
ラップ内の歌詞の意味も当然無い。kanonと関係があるわけでもない。
エロゲメーカー黎明期に相応しい実にほっこりするエピソードです(適当)

赤いスイートピー(松田聖子)三村かな子


「大坪由佳さんが赤いスイートピーを歌ったら絶対オタクが死ぬよな」
というようなことは常に考えていて、今回それを妄想で実現した形だ。

ハッキリ言って大坪由佳さんに赤いスイートピーを歌ってもらいたいだけなので、三村かな子さんとは何の関係もない。そういうこともある。

虹を待つ人(BUMP OF CHICKEN)城ヶ崎美嘉


Truly(PASSPO☆)城ヶ崎莉嘉


待つわ(あみん)赤城みりあ&城ヶ崎莉嘉


ノーコメント



キミに負けないように(星山澪)高垣楓


「武内Pは元高垣楓のPだった説」を採用するとこの曲になるんじゃないだろうか

高垣楓さんは意外とグランダー武蔵が好きなのかもしれない。
そういう部分に萌えを感じる。


balance unbalance ~ホントウ ノ ワタシ~(三森すずこ)諸星きらり


諸星きらりさんに対しては整理の付けようのない情念があるのでノーコメント


空想ルンバ(大槻ケンヂと絶望少女達)CANDY ISLAND(双葉杏+三村かな子、緒方智絵里)


大槻ケンヂと絶望少女達はCANDY ISLANDに合うな、というのは前々から考えていた。
しかし大槻ケンヂと絶望少女達と言っても結構な曲数がある。
そこでピーンと来たのが空想ルンバの「安い値をつけやがって、解き放つぜ」という歌詞。これが実に双葉杏さんらしい。

あと「いえいえアナタとセットは嫌じゃ」と歌う緒方智絵里さんを想像したら興奮した。


Give a reason(林原めぐみ)アナスタシア


アナスタシアさんの林原めぐみ感は異常。

Give a reasonはスレイヤーズNEXT後半の展開も相まって大好きな曲ですね。

愛情・情熱・熱風(北原沙弥香)多田李衣菜


イナズマイレブンGOダーク は決して素直に褒められたゲームではないのですが、EDのこの曲で大号泣したので全てを許しました。
これからイナズマイレブンGO を遊ぼうとする人は是非ダークをオススメします。
アニメは明らかに1シリーズ3期から製作陣の自転車操業感が伝わってきて辛かったですね。
1シリーズ1期は否定の余地がない屈指の名作なので是非見て欲しいですね。


回レ!雪月花(歌組雪月花)凸レーション(城ヶ崎莉嘉、諸星きらり、赤城みりあ)


Shining☆Star(田村ゆかり、能登麻美子、釘宮理恵)new generations(島村卯月、本田未央、渋谷凛)












みんな快盗天使ツインエンジェルを見よう


2015/06/27

劇場版ラブライブをボロクソにけなす記事



ラブライブ! The School Idol Movie

















本当に酷い出来だった。俺はあの瞬間間違いなく地獄を見ていた。
ゴミの山に執拗に泥を塗りたくったらこういう物が出来上がるのかという感じ。
テーマとしてはタイトルにあるようにスクールアイドルの素晴らしさを伝えようということなんだろうけど、そもそも1期2期通して劇中にアライズとミューズの2組しかスクールアイドルが出てないのに何がスクールアイドルの素晴らしさなんですかね。
俺はミューズとアライズしかスクールアイドルを知らねぇよ。
もしかしてこの脚本家はラブライブがガルパンの様に様々なスクールアイドルと戦いを繰り広げながら親交を深める物語だとでも思ってたんだろうか。
そう思いながらスタッフを調べたら1期2期の脚本を務めた花田十輝だった。なるほどね。

ラブライブの演出志向として、ライブの観客を描かない、ライブの装置(スピーカーやマイク)を描かない、ある種幻覚演出的なアレが多用されるんですが、空港から帰ってきてファンに囲まれてるのにライブを見てたファン、TV放送を見てたファンを一切描かないのは惨めなぐらいお粗末。
この演出を意図してやってるというのはちょっと考えたくないですね。
そもそもラブライブってこの「ファン」の扱い方が非常にぞんざいで、「どうやらミューズの人気が出てきたらしい」という情報をネットの再生数だとか学校でチヤホヤされるだとかそういう方向でしか表せてないんですよ。本当に馬鹿なんじゃないか。あと女しか居ない。視聴者である俺の立ち位置がない。
「ミューズの9人の視点」ということならそれこそファンを描かないのはおかしいのであってね、まああの9人にとっては、自分と自分の周りの人間が大事でファンなんかどうでもいいということなんでしょうけど。そういう意味で彼女たちがスクールアイドルにこだわる意味は分かる。

対立煽る訳じゃないが「AKB0048」、「アイドルマスター」ではこのファンの描き方ってのをすごく繊細に、丁寧に描写して向き合ってるんですね。AKB0048では丁寧にアンチの存在まで描いていて、アンチとどう接するか。というところまで踏み込んでいた。
そして我々はアイドルマスター18話を永遠に忘れないだろう。












そういう素晴らしい作品群を見てると本当にラブライブがファンという存在から目を逸らしてるのが分かる。
逆にこの雑な方針が活かされたのがラブライブ1期3話で、この頃は3人しかメンバーが居なくてファンなんて誰も居なかったからこそ3人だけで歌う、観客はほとんど居ない初ライブがすごく感動的に写ったんですね。俺はボロ泣きしたよ。
それ以降はまあお察しですが。
幻覚演出も僕は最初「ミュージカル的な演出なのかな?」と思ったんですけど全然そうじゃないし、どうやら単にライブをやっているだけらしい。劇場で見てる時俺は何でこんなミュージックステーションで流れてそうなPVモドキを見ないといけないんだ……とずっと自問自答していた。
ライブシーンが本当に楽しくない。
そもそもライブの魅力ってクソデカいスピーカーとか、絶叫するファンの姿があってこそなんですよ。それ省くってことは単純に口パクの訳わからんPV撮る気しかないってことでしょう。そんなのYouTubeでいくらでも見れるわ。
幻覚演出を使うなら車の上に半裸で乗って深夜高速を爆走するぐらいはやってくれないと絵的に面白くない。











別にラブライブに半裸で車の上に乗って爆走しろと言っている訳ではない。
 

ライブに関しては3DCGの切り替え方がチグハグ過ぎて見てられない。違和感しか感じないし何なら1期アニメOPの方がまだ違和感が少ない。あと3DCGはロングショットで9人が同じ動きをするぐらいにしか使われたなかったし、全然迫力がない。
大きい動きをさせるためのCGじゃなく、作画の労力を節約するためだけのCGでしたね。そんなに作画節約したいならアメリカの背景でも写してそれっぽい絵にしとけや。
まあここは劇場版アイドルマスターでもミスってた部分でもあるし難しんだろうけど。
 そんな感じで、何も考えずにライブ作ってるんだなということだけがヒシヒシと伝わってきたライブシーンでしたね。

ちなみに3DCGといえばストライクウィッチーズというアニメが世界最高峰の切り替えの上手さを披露してくれるので是非皆さんストライクウィッチーズ見ましょう。


あと曲ですが俺好みじゃない。
という言葉で済ますにはあまりにも不備があると思う。
そもそも1回聞いただけの曲にそない感情なんか抱けるかボケ言う話しでね。
アニメのOPとかEDは何故魅力的に感じれるのかというと何度も何度も聞かされるからですよ。1回聞いただけの曲に思い入れは持ちにくい。

ここらへんアイドルマスターが良い見本だと思う。まず作品が始まるとテロップと共に聞き慣れたTHE IDOLM@STERが流れてくる。聞き慣れた、何度も聞いた曲だから当然観客のテンションはブチ上がる。俺はこの時点で泣いている。そして途中で挿入されるラムネ色 青春。吹き抜ける風のような気持ち良いメロディと共に合宿を楽しむアイドルの姿が映しだされる。ああ、最高だ。あと水着。
オタクは水着を見るとテンションが上がるし、挿入歌が流れるとテンションが上がる。このダブルパンチを序盤で放ってきたのは本当に凄まじかった。
そしてなんと言っても主題曲であるM@STERPIECE。このM@STERPIECEは最終盤を彩る曲なんですが、実は序盤の内にインストゥルメンタルという形で何度も何度も流されるんですね。
だから終盤でこの曲が流れてきた時、「初めて聞く曲なんだけど、聞いたことある!」という現象が起きる。いやぁ劇場版アイドルマスターは本当に凄かったですね。

閑話休題
このようにアイドルマスターは初めて聞く曲でも視聴者が楽しめるようにありとあらゆる工夫がこらされていたんですが、ラブライブはそういうフォローが全く無かったので、そもそも曲の良し悪しを語る域に達してない。

ちなみに最後のライブの脇マンコはヤバい。映画館でチンポ出そうかなと迷ってしまった。
アレ見るためだけに複数回通う人の気持ちは分かる。



シナリオに関してはもうアレでしょう。キツイ。
ちょっとだけ映画けいおんに構成が似てるとなとは思ったけど、細部でありとあらゆる面でのクオリティが違いすぎるので対比にすらならん。 
スクールアイドルの素晴らしさ云々言っておいて出てきたスクールアイドルが全員モブ顔ってなんやねん。
本気でブチギレそうになった。お前スクールアイドルの素晴らしさ伝える気ないだろ、と。
「スクールアイドルみんなで作るライブ」と銘打ってるのにミューズが終始中央に収まってるのはもはや笑えるレベルだ。スクールアイドルみんなで作る(ミューズの)ライブでしたね。劇場で終始頭を抱えるはめになった。

細部を突くと「叶え!みんなの夢!」というキャッチコピーなのに誰も夢に挑戦しないし、そもそも夢の存在が描かれない。誰の夢も叶わない、顔が良い女子高生がイチャイチャしてみんなにチヤホヤされるだけの映画なので、顔が良い女子高生がイチャイチャしてみんなにチヤホヤされる映画が見たい人は楽しめるかもしれない。

ちなみにこのイチャイチャの部分も僕は大嫌いだ。劇中で数回ほど顔に唇近づけてルージュブワァッ!みたいなシーンがあるんですけど本当に下品でイヤになりますね。
アニメのキャラのルージュに需要はあるのか。国民の民意が問われる。
途中でかよちんが突然泣きだして、ご飯食いてぇーーー!って叫ぶシーンがあるんですけど、僕はそのシーン、ああ、かよちんどうしたんだろう、何かイヤなことでもあったのかと本気で心配したのにご飯食いたいだけでしたという茶番オチ。
いや真面目にね、冗談でキャラクターに泣き声出させるべきじゃないんですよ。映画館だと声が響いてビクッ、ってなるし、こういうの繰り返してるとクライマックスでキャラクターが泣くシーンすらもギャグに思えるじゃないか。
とか思ってたら最後までキャラが泣くシーンはありませんでした。なるほどね。

キャラクターの扱い方についてだけど、割りと満遍なく色々なキャラのCPが試行出来るように描写を組んでてそこだけは唯一評価できる。
劇中でのファンはすごく雑に扱うのに、視聴者のオタクにはしっかり媚を売るんですね(笑) とか思ったりはしないでもない。
ちなみに「1つの劇中でほぼ全てのCPを試行する」という試みは「ゆるゆり なちゅやちゅみ!」という映画がとんでもないクオリティでやってのけてます。


ことりとかいうクソ女の母親の描き方も酷かった。ミューズ存続を問うシーンで、「みんながこう思ってる」「みんながこう望んでる」という話をするばかりで自分の意見が言えてない。しっかりするべきはずの大人を無能に描いておいて主人公たち子供を苦悩させるシナリオには正直不快感しか覚えない。



あとはーーー……星空凛さんがすごく可愛かったですね!!!!
僕は高坂穂乃果さん派でまあ凛さんは今まで割りとどうでもよかったんだけど、何故か異様に星空凛さんの所作にだけ異様に力が入っていた。何なんだこれは。
序盤から終盤までとにかく異様に星空凛さんの作画は動くし可愛い。
そして何より声優の演技がズバ抜けてましたね。

正直ラブライブの声優って全員下手だし音響担当もまあ能なしなんやろうなみたいな演技しかしないんですけど、 星空凛さん役こと飯田里穂さんの演技だけがズバ抜けてキレッキレで上手くて、他の声優陣の下手さも相まってとても魅力的だった。

ちょっとここでラブライブの声優の演技について語ろう。
ラブライブの演技は基本的に典型的なアニメ調で、チヤホヤされて調子に乗った女共がクソ高い声で騒いでそれで更にチヤホヤされるという、アレに近いアレなんですけど、まあ僕はそういうの嫌いじゃないんですよ。
ただラブライブのそれはあまりにも品がなさすぎる。うるさいし不快。
けど声優のラインナップ見ると確かにアレな人も居るけど三森すずこさんとかてーきゅうとかでは素晴らしい演技を披露しているし、声優に問題があるわけじゃないんですよね。単純に音響担当の奴の演技指示が無能なんだと思う。




















萌えアニメといえばさっき言った感じのアニメ調の演技が主流だったんですが、最近それは変わりつつあると思う。中でも代表的なのが「響け!ユーフォニアム」で、ジョイナスと呼ばれるキャラクターが中日ドラゴンズの指揮をとりながら陰茎を露出するアニメなのだが、主人公の久美子の演技がとんでもなくヤバいんですよ。
こればっかりは言っても伝わりにくいので実際に見て確認して欲しい。普段はアニメ調の演技なんだけど、シリアスなシーンや気を許してる、どうでもいいと思ってる相手の前では素に近い声になる。
この落差が実に甘美だ。本当に素晴らしいと思う。
こういうのは他のアニメでも顕著で(例をあげたらキリがない)、とかく今の時代のアニメでキャンキャン騒いでるだけの女キャラってのは居なくて、大抵「表」と「裏」の二面性を持った演技を使ってる。
ラブライブがダメだと思うのは悩んでるシーンとかシリアスなシーンでも声優が演技のトーンを変えないことですね。音楽を題材にしてるクセに声という音を演出に使って行かないでどうするんですかね。
ちなみに星空凛さん役の飯田里穂さんだけがこの2面演技をやってました。とんでもねぇなと思いましたね。


こんな感じに劇場版ラブライブはとても酷い映画なので皆さん見に行ってケチョンケチョンに叩こう! ラブライブを馬鹿にしよう! ほのにこ同人誌を買おう! 違法ダウンロードをやめよう! C3部を見よう!


















 以上ラブライブアンチよりお送りしました

2015/05/29

エンジェルビーツについて

唐突だが私は岩沢というキャラクターが好きだ。
私がAngel Beats!の中で好きなキャラクターランキングを作れば
1位 岩沢
2位 音無
3位 ユイ
の順になるだろう。 オタクはすぐ好きに順位を付けたがる。
何故岩沢が好きなのか。ギャラクシーエンジェルのミントさんで恋に落ちた沢城みゆきがCVだからかもしれないし、新作のゲームでえっちなCGを披露してくれたからなのかもしれない。

あと最低な事を言えば僕自身岩沢と天海春香さんを重ねているフシがあって、天海春香さんでオナニーすることは出来ないし許されることでもないけれど、岩沢なら出来るとかいう訳分からん基準があったりする。本当に最低なことを言ってしまって申し訳ない。


ちなみにこの岩沢、1話で重要キャラっぽく登場したのにも関わらず3話で成仏して以降登場することはありません。話題に出ることも少ない。
突然消えて誰もそのことに触れない、全ての意味でAngel Beats!というアニメを体現するキャラクターと言えるでしょう。別にdisっているわけではない。
そもそもエンジェルビーツには「成仏したキャラには極力触れない」という不文律がある。誰もそれを口にはしないけれど、誰もが守っていることだ。5点差で盗塁をしてはいけないのだ。
この不文律を皆が律儀に守ってるが故に、岩沢は「出てきてすぐ居なくなった影の薄いキャラ」という捉えられ方をされてしまった。これは大変不名誉なことである。
というわけで今回はその汚名を返上していきたい。
岩沢は素晴らしい魅力を持った人間であると表明していく所存だ。
それから各所でへたれヒモクズジゴロ野郎との罵りを受けている音無結弦さんの弁明にも努めていきたい。

そもそも何故「成仏したキャラに触れない」という不文律が存在するのか。それは端的に言えば、希望を持てたからです。
そもそもあの世界は死者が集まる死後の世界。それも満足する青春を送れなかった、理不尽な人生を送らされた者たちの世界です。そんな世界でNPCと同じようにいっぱしの青春を謳歌してしまえば未練が浄化されて成仏してしまう。それがあの世界のシステムなのだ。
そんなシステムに反逆し、死後の世界でもなお生き続けようと試みるのがSSS(死んだ世界戦線)なのだ。
彼らは徹底的に抗い続ける、授業をボイコットして野球に興じたり釣りを楽しんだり地下ダンジョンを攻略したり校長室を占拠したりゲリラライブを開いたり仲良く学食で飯を食ったりする。
「それこそ立派な青春じゃねぇか!」というツッコミを入れたくなる盛大なギャグなのだが、実はこれがポイントになってくる。
彼らの「未練」は楽しい青春生活を送ることではないのだ。もし、未練が青春を謳歌することならば、SSSに所属した時点で成仏しているだろう。そもそも楽しい時間は永遠に続いて欲しいものなのだ。それが人情というものだ。
だから「楽しい青春を過ごせたから成仏する」という流れは根本的に破綻している。
そもそも悔いのない人生というのはありえないんですよ。人間は悔いを残して死ぬもので、本当に悔いのない人生を送れたのだとしたら、その時間が永遠に続かなかったことを悔いるでしょう。
明日トラックに轢かれて死ぬかもしれないから毎日悔いの残らないように生きようとかいうアホの戯言は虚言でしかない。話がズレた。別にそういう話をしたいんじゃない。

悔いのない人生はありえない。だから、死んだ世界の目的は生前果たせなかった悔いを満たしてやることではないんです。人生の再試合をやる世界じゃない。彼らもそれを望んではいない。
故に、彼らの「未練」はもっと別のポイントに存在する。それはおそらく、今の未練を満たすことではなく、来世に希望が持てるようになること。

岩沢は何故3話で歌いきることで成仏したのか。それはきっと満足したからではなく、来世に希望を持ったから、来世でも歌うことが出来るという決意が出来たからなのだろう。
I also sing next! という言葉がある。直訳すると、「私は次も歌う」という意味だ。
この言葉は岩沢が、別れ行く皆で共有する寄せ書きに書いた言葉だ。
岩沢は来世でも再来世でも、たとえミジンコになってもオケラになっても歌うでしょう。それが彼女が死んだ世界で得た物だったのだと思う。

成仏するということはあの世界から居なくなるということでもあると同時に、「来世に希望を持てた」ということでもある。だから来世に希望を持てないで反逆を続けている死んだ世界戦線の面々は、成仏した仲間に対して、寂しさや悲しさと同時に憧れという羨望めいた感情を持ち合わせているのではないでしょうか。だけどそんなことを口にすることは許されない。
人間社会で「マイケル・ジャクソンみたいに死にたい」なんて言ったらマイケル・ジャクソンのファンからボコボコにされますからね。お前は何の話をしてるんだ。
だから誰も、誰かが言ったわけではないでしょう、成仏した人間の話はなるべくしない。自然とそういう不文律が生まれた。5点差で盗塁をしてはいけない。
そもそも死者は弔うものですけど、これから新たな生を迎えるであろう人間にかける言葉なんてありませんからね。エヴァとかいう陰湿根暗味噌集団のアニメじゃないんだから、自分の先を越して未来に向かっていった仲間に「おめでとう」だなんて言えるはずはない。

ちなみにI also sing next!の寄せ書き云々は昨日僕が夢で見た全くの妄想です。本当にすみませんでした。


ガルデモの歌を歌っているのは声優ではなく別のアーティスト、というのは有名な話。
し かしLiSAは知っていてもmarinaは知らないという方は多いのではないでしょうか。marinaさんはエンジェルビーツのボーカル担当をきっかけにデ ビューし、現在はPCゲームを中心に活動している。その点、エロゲ大好きキモオタクである私はコテコテのアニソンしか歌わないLiSAよりも好感を持って いるのもランキングの順に相関しているのかもしれない。
ハッキリ言って私はLiSAのキンキンした声が苦手なのだが、「ユイの歌」ということを考えればこれ以上ない配役だったのだと思わされる。10話の一番の宝物はボーカルがLiSAじゃなかったら泣かなかった。LiSAさんの他の曲だとträumereiが好きです。


Girls Dead Monster(まず名前だけでエモい)の曲だとAlchemyの歌詞が格段にエグいですね。麻枝准渾身の1曲に仕上がってる。深く歌詞を把握してない方は是非見て欲しい。http://j-lyric.net/artist/a053d48/l020b14.html
ちなみにLiSAさんの本名は織部里沙(おりべりさ)と言うらしい。トリビアの泉に投稿すれば80へぇは固かったでしょう。


閑話休題


ここまでの話で引っかかった人も多いかと思われますが、Angel Beatsでは「来世」が存在するものとされています。
皆さんは来世、存在すると思いますか?
知らんとしか言い様がないわな。
しかし死後の世界では来世はあるものとされている。それは何故か!? こんなん一々考えるようなことじゃない。そうでも考えないとやってられないからです。理不尽な人生を送らされて何も叶わないまま死んで、死後の世界に送られて、来世がないと考える精神は普通の人間は持ち合わせません。
まあそれとは関係なしに最終回Cパートで奏と音無が再会してますし、あの世界ではあるんでしょうね、来世。


死後の世界の役割は来世に希望が持てるようになることという話をした。
日向がセカンドフライを取ろうとして、成仏しかけた回がありましたね。最終的にユイにゃんに蹴飛ばされて落球しましたが、僕の説が正しければ、あれは取っても成仏はせんでしょう。
そもそも日向はセカンドフライを落として大会を敗退してチームメイトから陰口を叩かれて落ち込んでいるところを先輩に付け込まれて覚せい剤にハマって死んだわけで、セカンドフライを取れれば解決するという問題じゃない。
日向が本当に必要だったのはフライを取ることじゃなく、フライを落とした後、軽口言って小馬鹿にして励ましてやれる仲間だったんですよね


こんな具合にAngel Beatsのキャラには未練なりやりたかった事なりがあるんですが、例外が居る。天使ちゃんこと立花奏さんとへたれヒモクズジゴロ野郎こと音無結弦さんですね。
 奏さんは音無の心臓移植によって助けられて、そのお礼を言うために死んだ世界に来たので、音無にお礼を言えた時点で未練はない。だから最終話でも音無が惜しむ中すんなり消えたんですけど、ここで一番の例外が音無になる。
最後の最後に消えたくないと叫んだへたれヒモクズジゴロ野郎の音無さんです。

先に言っときますけど僕は音無という主人公が大好きなのです。その割りにへたれヒモクズジゴロ野郎だなんだと言われているのが本当に悲しい。貴様らの血は何色だ。

音無は記憶を喪失していて唯一あの世界で未練がないキャラクターなんですよね。だから他人を成仏させようと活動も出来るし自分の未練と向き合うこともない。そんで途中で記憶が戻るんですが、途中で記憶を取り戻したことで音無は唯一死んだ世界で未練を作ったキャラになる。
大半のキャラクターは未練を持って死んだ世界に訪れるのに、音無はこの世界で未練を作ってしまった。
救えなかった妹と奏さんを重ねちゃったんでしょうね。だから音無は未練を来世への希望に変えることが出来ない。音無にとって未練というのは妹を救うことで、妹が救えなかった今それを奏さんに移してしまっている、だから奏さんが死んだ世界に居る限り音無は絶対に成仏できないんですよね。
最後の最後でそのことに気付いてしまって、奏さんを引き留めて二人で死んだ世界に留まろうと話すんですが、奏さんも分かってたんでしょうね、自分が居る限り音無が成仏できないということを。だから自分がまず消えて、音無にその後を追わせるようにした。とても感動的な話ではないですか。

音無がやれ自己中だ最後の最後で意見を変えるヘナチョコ野郎だなんだとマジでかわいそうなバカ共が喚いてますけど、音無の生前というのは他人に尽くす人生だったんですよ。妹を助けようとして出来なくて、それ以外の誰かを助けようと医者を目指すけど死んでしまって、最後の最期にドナーでやっと1人救えて、死んだ世界に来てからも受け身で誰かのための事ばかりやって。最後ぐらい自分勝手になってもいいじゃないですか。ようやく自分が救えた1人の命と死後の世界で暮らそうなんていう甘い考えを持ってもいいじゃないですか。

そもそもオタク共、あんな可愛い子と二人きりの世界になったのにそのまま消えていくことなんて出来るわけないだろうが。綺麗事を言うな、なんだその第三者目線は、もっと真剣に音無の目線に立って考えろ。口で言うだけなら誰にもできるぞ。

同様の問題は伊藤誠の時にも言ってましたね。発言はサルベージしといたんで暇な人はどうぞ。
http://gyazo.com/b2541edec3b43b2289da86f9b94195d2

伊藤誠の様にゴミオタク共からクズだなんだと蔑まれた音無の判断は実に切実で、我々の心に迫る決断だったと言えるでしょう。まあそんな甘い考えは奏さんに一蹴されましたが(めでたしめでたし)



この記事を書いたあと一番の宝物の歌詞 http://j-lyric.net/artist/a053d48/l021472.html を見直してたら俺の泉こなたさんの想いをド直球で歌っててボロ泣きした。

それはともかくマスターアップおめでとうございます。世界の終わりも大好きです!

2014/11/03

映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナを見てきた

大津までサイクリングに行ったついでに草津イオンモールで映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナを見てきました。
結論から述べると大変素晴らしい映画でありました。この映画が我々に指し示してみせた信念は人々の心に暗雲垂れ込める時代が訪れたとしてもその輝きを失わない不変の光でありましょう。

まあそんなくだらない御託はどうでもいい。この映画に接近を試みる際に焦点となるのはただ一点。愛乃めぐみさんは何故たった一度ダンスを踊っただけの、仮初めの友達を演じ自分と仲間たちを騙して窮地に陥れたつむぎさんをあそこまで懸命に助けようとしたのか。
それは端的に言って、 愛乃めぐみさんが強く、優しく、そして何よりも「たった一度の楽しい」を大事にして、それを伝えられる人だからです。
愛乃めぐみさんがつむぎさんと踊ったのは一度しかありません。しかし愛乃めぐみさんはその瞬間を楽しいと感じた。そして友達になりたいと心から思った。その想いを伝えようと試みた。そして彼女は人のことを思いやれる子だからつむぎが本心から自分たちを騙したわけではないと理解できた。この無鉄砲なまでに想いを伝えようとする純粋さと、他者の想いを汲み取ろうとする思いやりが愛乃めぐみさんの何よりの美点でありましょう。他者を思いやる心とは即ち愛です。しかし愛は時折無力になります。今作の映画は愛が行き詰まって無力になってしまった時、人は何をすることが出来るのか、というテーマだと考えます。





彼女は守りたかったのだ。自分の世界を。愛おしい日々を。それが既に失われてしまったものだったとしてもまだ幼い少女が懸命に愛した日々を切り捨てることなど出来るはずがないだろうが。
俺は憤怒した。運命とは幸せな日々をひたむきに歩むつむぎさんのような美しい人にこうも残酷な現実を突きつけるものなのかと。 
俺は許すことが出来なかった。彼女からバレエを奪った運命を、彼女に対して何もしてやれない己の無力さを。
踊りを失った彼女は決壊を起こしたダムのような脆い存在だった。彼女の中から大切な物がこぼれて流れていってしまう。友も、家族の愛も、そして己の希望すらも全て失ってしまったのだ。
そうして全てを失ったつむぎは自らの殻に篭ってしまう。即ち人形の国、ドール王国だ。
彼女はその国の中でなら幸せでいられる。彼女は仮初めとはいえ、一度はなくした幸福な日々を取り戻すことが出来たのだ。
無論虚構はただの虚構。夢はあくまで夢であり、それは現実ではない。しかし、しかしだ。一度は全てを失った彼女が夢の国の中だけとはいえ、再び笑顔を取り戻すことが出来た。俺にはこの事実を否定することなど出来ない。つむぎの笑顔を否定することなどできるはずがない。絶望の淵に追い込まれ、全てを失ったつむぎがようやく手に入れた幸せな場所なのだ。
だからこそ俺はドール王国を保とうとするつむぎの姿勢を強く支持した。つむぎの笑顔を守るためならどんなことでもすると誓ったのだ。そう、上映中俺はドール王国の人形たちと志を共にしていた。なんと俺はドール王国の住人だったのだ。
しかしプリキュアたち、 愛乃めぐみさんはつむぎの気持ちなんてお構いなしにつむぎを救済に導こうとする。違う、違うのだ。聞いてくれキュアラブリー、つむぎはこの世界から出てしまえば、踊れないつむぎになってしまうんだ。現実を直視させられてしまう。そんなのはナシだ。もうつむぎはイヤというほど現実に苦しめられたのだ。もういいじゃないか、許してやってくれ、開放してやってくれ。キュアラブリーに語りかける俺の声が届くことはなかった。それはそうだ、俺は映画館の席で苦渋の声を呻き立てているだけだったのだから。
俺はドール王国の人形でもつむぎさんの友達でも、プリキュアの協力者でもあの世界の人間でもなかったのだ。俺は、プリキュアの映画を見にきただけのキモオタで、プリキュアに、つむぎに何かしてやれることなどありはしなかった。ただ彼女の笑顔を願うことしか出来ない無力さを呪うしか出来なかったのだ。
愛乃めぐみさんは懸命に説得を続ける。ああ、キュアラブリー、そうか、あなたが代わりに代弁してくれるというのか。あなたはいつだってその持ち前の勇敢さと、賞賛されるべき無謀さで、人の、自分ですら気付かない感情の極地を覗き知らせてくれる。
しかし無力なのだキュアラブリーよ。この世界を出たところでつぐみの足が治る術はない。人間は手の届かぬ事にはひたすら無力である他ないのだ。
ああ、愛乃めぐみさんも同じだ。愛の戦士プリキュアといえど、不可能なことは不可能なのだ。あなたも俺と同じ壁に遮られてしまった。俺は落胆を覚える。彼女を救うことは誰にもできない。だったら彼女はずっとこの夢の国に居続けて、バレエを舞う。それしかないじゃないか。それが一番幸せな選択じゃないのか。
しかしキュアラブリーは諦めてはくれなかった。ああ、気付かされてしまった。違う、愛乃めぐみさんは俺とは違う。俺のような臆病者とは根本的に違うのだと。愛乃めぐみさんは真剣につむぎのことを想っていて、その思考の末にたとえつむぎが傷つくことになったとしてもつむぎがこの仮初めの世界の繭を破って現実に踏み出し、本当の世界で心から笑い合える日々が訪れるを望んでいるんだ。そして何よりも俺のようなキモオタと違う点、それはプリキュアであるとか、住んでいる次元が違うとか、そんな些細な違いではない。愛乃めぐみさんはつむぎと友達になりたいと願って、そのとおりに行動した。彼女は勇者だったのだ。 
俺は涙した、俺はつむぎのことなんて何も考えられちゃいなかった。俺はただ、つむぎの傷つく顔が見たくなかったから、幸せでいて欲しかったからつむぎが夢の世界に居るのが最善だと考えた。しかし、それは翻せばあまりにも自己中心的な願いだったと気付かされた。
悪の怪人が現れる。もはやコイツの名前など覚えていない。つむぎの足を動けなくし、つむぎから踊りを奪ったのは全てコイツの差金だった。コイツを倒せば全てが解決するのだと。
当然俺は怒りに燃えた、こんな奴のせいでつむぎは苦しみ、絶望に飲み込まれ、夢の世界にすがるしか生きる術がなくなった。許せるはずがない。
しかし俺は無力だった。俺はプリキュアの仲間でも、人形の国の王子でもなく、単に映画館の席に座るオタクだったからだ。悪の怪人は強かった。人形の国の王子も愛の戦士プリキュアも倒されてしまう。クソッタレめ、こんな結末を黙って見過ごせるか。俺はプリキュアが大好きなんだ。プリキュアたちが紡ぐ物語はこんなしみったれた絶望の色ではなく、未来への眩しい希望が溢れる愛の色だったはずだ。何かに俺に出来ることはないのか。俺が己の無力さに苛まれ頭を抱える中、首にぶら下げたミラクルドレスライトが真白く光り始めた。俺の右手がスイッチを押していたのだ。
映画館で配布されるミラクルドレスライトにはヒモがないらしいが、物販でミラクルドレスライトを購入すると(税込み650円)通常のミラクルドレスライトとは違い首にぶら下げるためのヒモと愛の宝石を模したストーンが取り付けられているのだ。そうだ、俺は上映が始まる前にネックレス代わりにミラクルドレスライトを装備したのだった。
ミラクルドレスライトはヒモにストーンが取り付けられているため振りまわすのには適していなかったが、そんなことは知ったことではなかった。こんな俺でもプリキュアの為に何かをすることが出来る、応援の光を届けることが出来る。そう知った時に高まりの鼓動を抑えられるほど俺は感情を捨ててはいない。気付けば腕全体を使ってミラクルドレスライトの光を振り回していた。これは俺の祈りであった。映画館に同席した他の人間はミラクルドレスライトを買い損ねたらしくライト持っていなかったから、その人たちの分の想いも伝わるように懸命に振った。振り回すたびにヒモに吊り下がったストーンが顔にベシベシ当たったが、そんな痛みはプリキュアを応援することができる喜びに比べれば些事でしかない。
そんな俺たちの想いが届いたのかプリキュアは覚醒を果たしスーパーハピネスラブリーが生まれた。プリキュアはその力で悪の怪人を討ち果たした。当然だ、大切な人を想う愛の力が身勝手な悪の感情に敵うはずなどありはしないのだ。つむぎの足は無事に治った。ようやく希望溢れる未来に羽ばたくための翼を取り戻せたのだ。
つむぎはリハビリを経たのち、愛乃めぐみさん達の前でバレエを披露する。この瞬間、つむぎさんと愛乃めぐみさんは本当の意味で、幸せに笑い合える友達になれたのだ……。これ以上はないハッピーエンドだ。与えられたものじゃない、彼女たちが自ら望み、勝ち取った幸せなのだ。みんなが笑い合っている、大きな愛が生まれている。彼女たちがこれから過ごす希望で満ちている未来は、今よりもっと大きな愛で世界が満たされていることだろう。俺は満足して映画館を出た。ありがとう、ハピネスチャージプリキュア。そうひとりごちり琵琶湖を眺めながら帰り涙を流したオタクの心には紛れも無い愛が宿っていた。ハピネスチャージされたのだ。


愛は美しい感情でありますが、時折無力になります。そんなとき人は何をすることが出来るのか。
愛乃めぐみさんは言いました。「つむぎちゃんの笑顔を取り戻してみせる。だって、友達だから」
おそらくあの段階ではつむぎは愛乃めぐみさんのことを友達だとすら認識していなかったでしょう。倒すべき敵、自分の世界を壊しにくる悪だと考えていたはずです。それでも、たとえ裏切られたとしても愛乃めぐみさんはつむぎに想いを伝えます「友達だから助ける。友達になりたい」と。

映画ハピネスチャージプリキュアは想いを人に伝えることの大切さを示す、愛に溢れた作品でした。



2014/07/08

ご注文はうさぎですか? 感想。

というわけでね、ご注文はうさぎですか? 最終話のほう、号泣させていただきましたけれども。
いやぁ、美しい愛情の物語ですね……。
愛と言っても性愛や家族愛という類の愛ではない。他者と他者の関係の中に生まれる確かに尊い感情、そういった愛の物語なのである。

ごちうさを論考する際に重要になるのはキャラクターの関係間の非閉塞性であり非親密性である。彼女たちは何か特別な繋がりを持っているわけはなく、ただあの都市の喫茶店に集うことで知り合っただけの関係であるということです。この位置は客観的に見るならダスマンとも言える状態でありましょう。

しかしココアさんとチノさんは共に過ごす時を経て、やがて本当の姉妹であるかのような関係性に到達するのです。その地平に至るまでの過程の描写はシームレスであり、また描かれる他者性の中にありながら他者性を捨象した空間において描かれる他社間における愛情の物語に我々は感銘を受ける……。それはまるで飛 べない鳥が空を泳ぐ白鳥を見つめる様の様に……。要するにオタクの憧憬であるということ。

きんいろモザイクやゆゆ式は関係性の中でやりとりされる本質的かつ性愛の関わる余地のない密接な愛情を描いていたけどごちうさは関わりを持たない者同士が愛情を補足するに至るまでの物語でしょう。

あくまで1話が始まった時点ではココアさんは誰とも知り合いじゃなかった。この事実が重要です。
一時の癒やしを与えることをレーゾン・デートルとする日常系アニメの1話において誰とも関わりを持っていない状態を描写することの恐ろしさは語るまでもないでしょう。しかしご注文はうさぎですか? はそれをやってのけた。
それは無知ゆえの行為なのかもしれないし、意図的なものかもしれない。しかし確実に日常系を摂取しようと企む層を払ってのける意志なのです。
私はこれを勇気の行為と賞賛しましょう。GJ部でさえこの領域には踏み込めなかった。
最初はたどたどしかった関係が終盤になるにつれて円滑に、いわゆる身内のノリが形成されてきてその空間を存分に享受できるようになるというのは日常系にお ける醍醐味のようなもので、ほぼ全ての日常系はこの効果を狙って演出を行っています(漫画家の今井哲也さんはこの効果のことをきららコードのデコードと名付けましたね)
勿論それはごちうさにおいても例外ではなく、しかし確実に変容している点が、繰り返しになりますが主人公のココアさんは初期において誰とも知り合いではなかったということです。




他の日常系が関係性を積み重ねるというスタイルを取っている中、ごちうさにおいては関係性を初期から構築していくという表現方法を採用しています。
この効果の最大のデメリットとして1クールだとそもそも本題の関係性を積み上げられないという点です。
最終話においてもチノさんがココアさんのことを寝ている間に「お姉ちゃん」と呼んだだけで、それ自体はある種大したことではないです。
ここで着眼すべきは、1話が始まった頃は知り合いですらなかった2人の関係性がここまで接近したという事実であり、私はその事実に気付いた頃、この物語を尊き物語として扱おうという決心をしました。

ご注文はうさぎですか? を批判する際に持ちだされうるのがごちうさにおける都市の非実在性や関係性の非密着性です。これについては弁解のしようがなく、紛うごとなくごちうさの構造上の欠陥と言えるでしょう。
しかしそれさえ乗り切ることが出来たならごちうさはあなたにとってかけがえのない友愛の物語としてクリティカルな憧憬を与えるはずだ。

これでいいですか。はい。










オマケ

4話の作画は14年アニメ屈指の神作画












































当ブログは天々座理世さんを応援しています。

2014/01/09

のんのんびより最終回見ました。結論から言えば自由の対比という構造を使った日常の肯定だったのかな。とか思ったのでTwitterの引用交えつつ小さくまとめます。

のんのんびよりではかなりの頻度で「自由の拘束」が描かれる。3話の先生の田んぼ作業を手伝うエピソード。5話で海水浴に行くエピソード。9話で文化祭に友達が招かれるエピソード。10話で初日の出を見に行くエピソード。12話で私有地の清掃を住民みんなで行うエピソード等です。
のんのんびよりにおいてはどれもおだやかなテイストで和やかに描かれるが、これを現実に置き換えた場合田舎付き合いによる自由の拘束と受け取れる。 それは、田舎において付き合いを放棄するということは村八分にされるということに他ならないからだ。この辺りはのんのんびよりが描くことを放棄した田舎のネガティブな側面です。しかしそれを暗に提示している。これはのんのんびよりスタッフの誠実さです。我々はそれを足がかりにのんのんびよりを紐解くことができる。

以下Twitterからの最終回感想です。


私有地の清掃。これは前述の通り田舎の付き合いですね。更に私有地を持つ者が少ない都会との対比も行われている。そしてれんげは翼を授かる。これは疑う余地もなく自由と開放を意味しています。つまり土地(管理するべき物)を持たない現代人に自由がなく、土地(皆で守らないといけない物)を持つ田舎の人間は自由を得る。資本によって便利な生活を得た現代人は紛れも無く自由を手に入れたのでありますが、故に失った自由もあると。田舎の生活は人間関係が狭く自由を失いやすい環境ですが、故に手に入る自由もあると、のんのんびよりは語っているわけです。

その自由で人間がなにを行うか。これはOPでも語られているようにゆるやかに続いてく日々に答えなどなく、季節は歌うように過ぎていくものなのです。自由 の中でなにを行うかすら自由なのだと。彼女たちはその自由の中で「皆と戯れる」という田舎での日常を肯定する行為を選んだわけです。それは賞賛されるべきである。故に我は彼女たちを賞賛する。

最後に彼女たちがカメラの前に会釈をする。これは言うまでもなくのんのんびよりという存在が劇であるという主張ですね。つまりのんのんびよりは劇であると彼女たちは語っているのです。その劇がこたび最終回という形で締めくくられたわけです。

しかしCパートで再び映像が始まる。彼女たちは現れず数カットだけの田舎描写ですが、この描写によって我々はのんのんびよりの世界は続いていくことを知る。のんのんびよりという劇は終わりを迎えたが、のんのんびよりという世界は連綿と続いていくのです

よいですか。のんのんびよりという劇は終わりましたが、のんのんびよりという世界は連綿と続いていくのです。我々はそれを永遠に賛美することが出来る。

のんのんびよりという劇が終わっても、我々はのんのんびよりを永遠に賛美することが出来る。 それはかけがえのない事実です。

2013/11/05

魔法少女まどか☆マギカ叛逆の物語

劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語を見てきました


そんでまあ全体の感想を言わせてもらうと、ああまどかだなぁと。終始、錯乱ミスリード演出、ミスリード錯乱、からの演出ミスリード錯乱みたいな感じでシンプルな脚本をそのまま視聴者に伝える気皆無でしたね。めちゃくちゃ頭使わされましたけど、やってることはホントシンプルでした。ホントシンプルなハッピーエンドでした。これを黒虚淵とか言ってる奴は小学校から倫理観を獲得しなおしてこいや。


物語はナイトメアという新たな脅威と戦うところから始まりますね。何故か死んだはずのみんなが生きてたりベベとかいう謎の生命体が存在していたりホーリクインデット(まどか、ほむら、マミ、さやか、杏子)が活躍したりします。正直ここらへんは茶番っぽいし頭使って見る価値ないなーって思いながら見てたんですけどOPでほむら以外のキャラクターが演劇してましたね。この時点で「ああ、ほむら以外のみんなは役割を演じてるんだな」ということはなんとなく分かりましたけど。まあ案の定ミスリードでしたけど。


モブ緑が上条恭介とかいう禁書とリトバスの合成品みたいな奴と上手く行かなくてキレます。そいつから生まれたナイトメアと戦う時に5人が勢ぞろいして変身シーン。この変身シーンですがTV版とめちゃくちゃ変わってます。なんていうか演劇みたいな感じ。捻くれすぎて気持ち悪い変身シーンでしたけどちゃんと意味がありましたね。TV版では正統派魔法少女物に見せかけるために可愛らしい変身シーンだったんですけど、映画ではわざわざそんなミスリードを誘う必要がないからカッ飛ばしてきたのかな~?? とか考えてました。はい、ミスリードでした。


まあケーキはマミとかキチガイみたいな意味わからんこと言い出すんけど「あっ、ここは茶番だな」と思って特に考えませんでした。ここほむらだけ訳が分からないまま役を進行してて、これは限りなく視聴者の気持ちを代弁してるんですね。つまりこの意味不明なシーンでほむら=視聴者の図式が完成するわけなんですよ。まあミスリードなんですけど。


そして、この死んだはずの5人が仲良く生きていてナイトメアという訳の分からない敵と戦ってる現状にほむらは違和感を感じます。そこで杏子を連れて、街の外に出ようとするんだけど、出れない。どこまでいってもどこまでいっても見滝原市から出ることが出来ない。ここでほむらと杏子は異常をハッキリと知覚し、視聴者と完全にリンクするわけです。 ミスリードだけど。


ほむらはこの事態を魔女の結界のせいと捉え、何故かマミが連れているベベ(首チョンパの張本魔女)を殺そうとします。んでまあなんやかんでマミVSほむらになるんスけどこの戦闘シーンがクソ熱いので要注目です。いや、ええもん見れた。これは別にミスリードとか関係ない(はず)です。


んでまあクソなんやかんやあってほむらが実は魔女でこの世界を作った犯人ということが分かって。

ここでキュウべえがネタばらし。
魔力が尽きて円環の理(まどか回収)に導かれる寸前になったほむらをインキュベーターが回収し、この世界と隔絶する空間に保管した。封鎖された世界の中で魔女となったほむらは無意識に杏子やマミと言った実存する魔法少女や緑モブ女や上条恭介、そしてなにより鹿目まどかを結界の中に呼び込んだ。ほむらが居た世界(叛逆におけるメイン世界)では鹿目まどかという人物は存在しない、そしてほむらは常々円環の理の事をこう呼んでいた「鹿目まどか」と。まあつまりこの鹿目まどかが円環の理の正体であることを突き止めちゃったわけです。この閉鎖空間で暁美ほむらの魔女を発現させ円環の理に導きに現れる鹿目まどかを観測して、鹿目まどかの力を制御下に置き、また元の絶望した魔法少女から魔女が生まれる世界に作り変えることがインキュベーターの目的だったわけです。
 まあなんやかんやで神まどかが送り込んださやかやベベが助けに来て、杏子やマミ、まどかの協力もあって閉鎖空間を撃破。インキュベーターの目論見を阻止し、ほむらはTV版最終回で望んだ通り、魔法少女の力を全て使い果たし倒れ、魔女になる前にまどかに救ってもらう。
完璧な結末です。ほむらは自分が望んだまどかからの救済を受けることに成功するわけです。なんでも一人でやってきたあの頃とは違い、仲間に助けられて、自分が望んだ最高の結末を迎える。そのはずだったのだけど……ここで序盤の執拗なミスリードが活きてきますね。ほむらはまどかとの対話の中で(省いたけど)芽生えた感情。あなたを辛い運命から開放してみせる。という気持ちを捨てられなかったんでしょうね。
ほむらは救済の直前、神まどかの力を奪い取り文字通り理に「叛逆」を起こした。宇宙の概念はまた作り変えられ、ほむらは神になる前のまどかを獲得し、自分がまどかの立ち位置に存在することに成功する。そして奪われたまどかに、自分が不必要になった暁美ほむらとしての存在を与え立場を逆転させた。円環の理に導かれたはずのさやかとベベは神まどかの制御を離れ現世に回帰し、杏子やマミは全てを覚えておらずそのまま生存した。かくして、世界は歪な形ではあるが完全な平和を取り戻すことに成功したのだ。まさにこの映画は暁美ほむらが世界に、インキュベーターに、理に対して叛逆する物語であった。


まあこんな感じのストーリーですね。誰も死んでません。むしろ全員生き返ってます。すごい。超ハッピーエンド。ほむらが理よりも愛を選んだことでみんながハッピー。革命はここに成った訳です。
ただの革命なら美徳であるがほむらが行ったのは紛れも無い叛逆である。最終回でまどかに誓った「最期まで魔法少女としての使命を果たして、まどかに導かれて救済される」という決意を自ら破ったのだ。よりにもよってまどかから能力を奪い取るという手段で。
 ほむらは自らが定めた尊い目的を達成することを拒み、醜い叛逆による平和を勝ち取ることを選んだのである。凄い。まさに悪魔的である。天使的な自己犠牲で他者の救済を望んだまどかと対極の行動で、ほむらはそれ以上の世界平和を勝ち取ったんですよ。終盤で、ほむらはインキュベーターに対してこれは愛だと言った。感情でも信仰でもなく愛。ほむらがまどかに抱いた想いはまさしく愛だったんですよ。ほむらは、愛を選んだ。ほむらにとってまどかは神ではなかった。愛すべき人間だったんですよ。そして最期はまどかの叛逆を予感させるシーンで終わる。あの世界は紛れも無く平和であるが、奪われ、平和を与えられたまどかはほむらに叛逆するであろうという表しですね。これは最高に悲しいと思うし最強に道徳的なんですよ。僕はあのままほむらが勝ち取った平和な世界を享受してほしいと思うんだけど、あの世界はそんな身勝手を絶対に許さないしまどかも自分の決意をないがしろにされたのはやっぱり、許せないことだと思う。キュウべえも遠からずほむらの支配体制へ叛逆を起こすだろう。祈りではなく叛逆で得た平和は長続きしないのだ……悲しい。


まあそんなワケでまどか☆マギカ叛逆の物語。終始ミスリードを誘う構成でした。中盤は頑張ったけど報われない話かな? と思ったら、その後は頑張れば仲間が助けに来てくれる話になってたし後半は自分の欲望の赴くままに平和を勝ち取る話でした。ミスリードの物量と質の高さはトップクラスですね。相変わらず虚淵はこういうのが上手いし、シャフトはシャフトで何気ないところで絵を使い回したりホントアニメを作るのが上手だなぁという印象です。

それとこれはまどか☆マギカ全体に通して言えることなんですけど、徹底的に他者の存在が排他されてますね。叛逆は特に顕著でした(というかそのもの)これは女子中学生の眼に映る世界の狭さの比喩ですね。その使い方が今作は特に目立ってた割にストーリー材料に絡まなかったしこれからの展開に関わってくるファクターになったりするんですかね。とりあえずほむらはもっと他者を信頼してほしかったというのが正直なところ。さやかとの対話からも逃げ、まどかから強引に力を奪った。ここらへん各所で言及されてる通り、時間を止められる能力を持つが故に他者を基本的に見下してるんですなァー。まどか☆マギカがほむら視点の話であり続ける限り、他者は絶対に描写されないと思います。逆にまどか視点ではモブキャラが結構活発なんですよ。これはアレですよね、ほむらはまどかと誰かとそれ以外っていう認識しかないんですよ。だからこそサイコレズみたいな扱いを受けるし(実際その通りなんだけど)悲しい。ほむらに対して一つ踏まえて欲しいのは、どういう手段であれ、いずれ叛逆が起こると約束された刹那的なものであれ、ほむらは1つの平和を成し得たということです。それは膨大な魔力を持つまどかでさえ出来なかった。この行為に宿る優しさはそれが全てまどかの為のものであっても尊いものなんですよ。ありがとう暁美ほむら……。


最後。EDとスタッフロールが流れてしばらく、また映像が映ってほむらが劇っぽい動きをするんですけど、これはアレですかね。やっぱり演じてるってことなんでしょうかね。コードギアスR2ラストのルルーシュの様な悪人を。自分が再構築した世界での役割を。それにしては構築が周到だしもう分かりませんわなァー。続編はないとのことですが、もしあるとすれば、それはほむらが叛逆される物語になるんでしょうなぁ。 僕はあのほむらが力づくで築きあげたあの世界が好きだから。なるべく壊してあげないんでほしいんですよ。革命のあとには保守が待っている。それはやっぱり、出来ることなら認めたくないじゃないですか。

たまゆら~もあぐれっしぶ~感想

たまゆら~もあぐれっしぶ~を見ました

名前がややこしいですね、未だに覚えられてないです。たまゆら~hitotose~でも思いましたけどこういうタイトルの付け方最高にダサいしやめてほしいですね。かといって「けいおん!!」みたく1期2期の区別がつけにくい名前にするのもそれはそれでめんどくさいし困る。「2」とか「NEXT」みたいな形にするのが結局無難ですけど一番良いんじゃないですかね。というわけでこのブログではたまゆら~もあぐれっしぶ~のことをたまゆら2期と呼びます。ところで2期は多分ありませんがC3部というアニメが面白いので見てください。



たまゆら2期はニコニコの一挙放送で見ました。滋賀県じゃ映らないのでこういうのホント助かる。まあニコニコとかバンダイチャンネルで放送はやってたんですけど正直OVAや1期がまるで面白くなかったのであの佐藤順一原作脚本監督と言えども、ネットでわざわざ追いかけて見る価値はないですわなァー。とか思って見てなかったんですよね。ぶっちゃけ冷静な判断だったと思います。まあ間違いだったワケですが。



たまゆらが放送されてる最中僕はTwitterで「あ~~たまゆらつまんねーよ~~佐藤順一クソだよ~~」とか呟いたりパワプロ2013のサクセスで斎藤佑樹をそこそこ強い能力にして遊んだりしてたんですね。それぐらいつまらなかったんですよ。


たまゆら、どういう作品かっていうとAmazonレビュー見れば本編見なくても分かるかもしれません。一貫してほのぼのとした世界観の中でクソ優しい女子高生とクソ優しいその家族やクソ優しい街のみんながクソ優しい女子高生の生き様をクソ優しく見守るという内容でホントつまらないんですよ。
こういうの好きな人はホント理解できない。佐藤順一はこういう系統の作品を作る人だけど、偉大なる過去作品は原作が違ったり企画が違ったりして、佐藤順一とは違う色の毒が入ってたんですよ(ケロロ軍曹とかその際たる例じゃないですか)そうやって成功していた。それが佐藤順一だけの作品となると無味無臭くさくて画面見てられないです。Twitterでも「佐藤順一は企画力ねークソだなー」とか呟いてました。


まあそうやってダラダラたまゆら見てると気づくことがいっぱいあるわけです。そもそもたまゆら、現実の竹原市を舞台にしてたり、実際のアーティストをアニメに出したり、完全に実存する世界の女子高生の日常に移入させる系の作品なのにカメラとかももねこ様とか視聴者が俯瞰的になるパーツガンガン出してくるんですよ。佐藤順一らしくないことにこの時点で演出方針がブレブレです。今考えれば塙かおるさんの「かおたんゆーな!」というセリフもアニメキャラであることを意識させるセリフでした。このセリフから分かるのは、たまゆらのキャラクターはアニメキャラなんですよ。現実には生きてないんですよ。もしリアルで勝手にあだ名付けられて呼ばれたりなんかしたら僕は発狂してパイプ椅子振り回しますよ。
現実で(友達とはいえ)勝手にあだ名つけるなんてほとんど現実ではありえない行為だし、もしあったとしたらマジでクソうざいですよね。だから「かおたーん」「かおたんゆーな!」という一連の流れは、彼女たちがアニメキャラであるという事実を示す演出なんです。


話を戻して、僕たちは現実に生きる一般人なのでアニメキャラに感情移入して楽しむって事は不可能なんスよね。それを擬似的に可能にする手法もあるんだけどたまゆらは一切使ってないしここでは言及しません。つまりたまゆらはアニメキャラクターの日常を保護者目線(俯瞰的視点)で見てくださいってアニメになるんだろうけど(ならないといけないんだけど)きんいろモザイクの様なキレッキレのギャグがあるわけでもゆゆ式の様な現実を意識した会話を主軸に置くでもなく、
何の変哲もないアニメキャラ女子高生のほのぼの日常が延々と佐藤順一画面(氏の過去作で何度も見せられて飽々してる画面)で繰り広げられるわけです。つまり面白味がない。楽しみ方がないわけですよ。我々視聴者はこのたまゆらという作品を享受する方法を完全に絶たれたということです。厳しい。というか、ありえない。C3部はこのへんの調整が完璧で見ててとても心地が良かったですね。


そんな事を考えながらまあボーッとして見てたらいつの間にか最終回でああこんなもんかー。みたいな妙な納得をしてたんですよ。佐藤順一はこの程度だったのかと。こんな演出の初歩すら出来ない無能監督だったのかと。んで最終回終わって、ニコニコ生放送は「嫁コレ」っていうたまゆらが出てるアプリのCMに入ったんですね。 そこで全ての真理を、この作品のギミックの全てを見つけました。価値観が完璧にスッ飛びました。


その「嫁コレ」 のたまゆらのCMが本当にエロかったんですよ。グレゴリオ暦最高のエロとの呼び声も高いGJ部並みのエロさでした。いやぁ、本当にエロかった。そのエロから着想を得ることで真理に到達できたんですよ。

それでは、佐藤順一氏がたまゆらに仕掛けたの壮大なギミックを1から語っていきます。

 たまゆらのキャラクターはみんな良い子、良い人ばかりなんです。
中盤でかなり口の悪いクソ捻くれインテリオヤジが出てくるんですけど、主人公の沢渡楓さんは圧倒的な精神的寛容さを発揮して、その人すら許容するんです。分かりますか? これは余裕です。中流家庭に生まれ容姿は端麗、まだ十分なモラトリアムをその身に残し、将来もそれなりに見据えている女子高生の余裕です。そのありあまる余裕をもってロリ容姿の女子高生が気持ち悪い性格の捻くれたおっさんを許容する。この事実を精神に受容させることで自己精神改革が行われます。この自己精神改革を発現させた状態でたまゆらの嬢ちゃんたちを見てみるとエっろい、エっろい。エロ過ぎる。ここに、佐藤順一によるアニメを用いた他者の精神改革が完了したというわけです。


俯瞰的視点と移入的視点をアナーキーに作品内に混在させてたのも現実は成し得ない沢渡楓さんの超度精神的寛容さをアニメーションに違和感なく落としこむための錯乱でした。沢渡楓さん達が他者がどうあろうとも許容していくその姿勢は本当に素晴らしい物だし真理性が極めて高い。このどんな他者すら許容していく姿勢は実に尊いのですがそれを認識するのは自己精神を改革しなくちゃダメで非常に難しいんですね。佐藤順一氏はそれをエロさという看板を使って作品内の至る所に気付きの機会を置きまくって、たまゆらを視聴した他者の脳を片っ端から改革していくことで沢渡楓さんの持つ美しい感情と姿勢を視聴者に一寸の誤解も生まれないレベルで伝達するギミックになっているんですよ。いや、これは本当にスゴイことですよ。


 勿論このギミックの存在を知らないままたまゆらの視聴を終えてしまう者も数多く居るんですよ(僕もその1人になりかけるところでした)。それは仕方のないことでそれに気付けない人の知性が悪いと見下してはいけないんです。ただ、たまゆらのスゴイところは、気付かなかった人でも差し障りの無いそれなりに感動するっぽいエピソードを盛り込んである程度の売り上げを確保したという点です。映像芸術は確かに素晴らしいかもしれないけど、資本主義は素晴らしいだけではやっていけない。大衆に受け入れられないと意味がない。この手法を盛り込んだからこそ安定した売り上げを築き、OVA、TVアニメ1期、2期とシリーズを続ける事が出来たんです。だからこそ僕も2期の最後の最後でようやく気づくことが出来た。
今思えばたまゆらは気付きの機会を視聴者に多く、より多く与えようとしていた作品でしたね。クソ差し障りの無いクソほのぼのストーリーも、2期をやって気づきの場を増やす為の一環です。この辺の制作手法はC3部と対極にありますね


たまゆらという作品を通じて分かった佐藤順一という人物は、とにかく 女の子を可愛くみせよう、他者に女の子の可愛さ、エロさを知ってほしいと考え、それを実行する身体性と実力を持つ素晴らしい人物でした。氏の新作、心を震わせてお待ちしています。頼む。




最後に、これは良いコンテンツになるぞ。とおもったので僕のTwitterたまゆら実況のツイートをまとめて掲載します。






 佐藤順一。女子高生の日常描くのやめてほしい


 というかたまゆらは全体的におかしすぎる。女子高生の日常に移入させる系の作品かと思えば写真部とかももねこ様とか視聴者が俯瞰的になるパーツ出してきや がってよー。だとしたらそれは保護者目線で見てくださいってことなんだろうけど、保護者目線で女子高生のほのぼの日常を楽しめる人間がどれぐらい居るのかっていう話スよ。俯瞰的にさせるならガンガンストーリー動かしてくれ。頼む。そう、それはC3部の様な(宣伝)


 C3部は俯瞰と移入の双方で違う面白さが提供されてて、なおかつどっちにでも視聴者が切り替えられるように演出も配置されててとにかく上手いのね。バラバラであることが一貫してるしその質が高すぎる。のね。ホント見てくださいC3部


マジで高尚な精神を既に獲得してるキャラクターを女子高生にするのやめてくれ・・・、女子小学生にしてくれ・・・頼む・・・


乳首出してくれ・・・頼む・・・


たまゆらの下瞼を点々で描くの雑魚ロリっぽくて最高に可愛いんだけど顔が縦に長すぎるせいで女子高生になってるのホント悲劇でしかない


 やっぱ佐藤順一企画力ないな。作品に何も一貫性がない。監督や演出やらせるだけなら良いもん作るんだけど・・・たまゆらの信じられないぐらいダサい映像を俯瞰でガンガン見せるのホントやめてくれ・・・


 たまゆら、俯瞰的な視点連発しておいて現実の人間ゲストで出すとかふざけてんのか


 佐藤順一ある程度凄いと思ってたけど今日からそびえ立つ糞でしかない。ARIAも全否定する勢いでキレてる


 マジでやめてくれ・・・。女子高生にしたのはロリ絵柄で高身長っていうギャップのエロさを出そうとしてるって理屈で納得したけど、マジで何がしたいのか分からん。佐藤順一頭イカれたんじゃないのこれ


 カメラっていう映像構造意識させるモンをメインに据えて、キャラクターも如何にもキャラクターキャラクターしてるキャラクター人間ばかりでこれはフィク ションですよアニメですよーみたいな雰囲気出してんのに実際のアーティスト出したり現実の街とコラボしてまちおこしとかふざけてんのか


 アニメと視聴者舐め腐るのもいい加減にしろや。マジでありねぇだろコレ。佐藤順一二度とアニメに関わるんじゃねぇぞ


 もう佐藤順一作品全否定する。セーラームーンもケロロ軍曹もカレイドスターもARIAも全否定する。佐藤順一はクソだ(キレてる)


 描きたいものを色々な角度から描くとかならともかくコイツら(長井龍雪佐藤順一)は色々な物を同じ角度で永遠描いてるからクソムカツんスよ。それはもう手抜き以外のなにものでもないでしょ。やめてくれ


 たまゆら最高だった


 エロ過ぎた。佐藤順一の伝えたい事が完全に理解できた。


 佐藤順一。似たような映像ばかり作るけどソレに込められたメッセージはまさしく誠実であるし、どうやったら女の子が可愛く見せられるか真剣に考えた末の素晴らしい考えを見事に作品にしてた。すごすぎる。これはどのアニメ監督にも不可能な試みと実装なんじゃないですかね。ホント素晴らしい人物だ
 

 俯瞰的視点と移入的視点を混在させてたのも精神的寛容さをアニメーションに違和感なく落としこむためだったし、ぽって達が他者がどうあろうとも許容していくその姿勢は本当に素晴らしいし、ここに1つの到達点を見た。


 ぽってたちが実存するのか、それともフィクションの人物なのかは視聴者の判断に委ねてて、ただこの作品のメッセージは「存在が現実であれ、フィクションであれ、ぽってたちは全て受け入れ許容しますよ」って言ってるしそれは間違いなく尊い


 ダメだ。たまゆらで完全に脳がやられた


たまゆら、虚構と実存、双方に対して精神的寛容さ(尊い)をコンテンツ全体でアピールすることで現実的ではない他者への許容をもってした平和主義思想を脳に植え付け。そうやって植え付けられた思考でもって画面を見て初めて作品に隠されたエロスが視認できるようになっているギミックです。


 このギミックにはマジでビビったし度肝抜かれた。ある意味C3部と対極にありつつ、根本的なところでは同じ作品ですね。


 というわけでC3部一挙放送はいよいよ明日です。


 【ニコ生(2013/11/04 17:00開始)】ニコニコアニメスペシャル「ステラ女学院高等科C3部」一挙放送 #C3部 nico.ms/lv155374533


 っていうか佐藤順一凄すぎる。一旦気づいてしまえば全てが噛み合って一つの真実(エロさ)に到達するこの構造を作れるのホント天才だ・・・


 当日見れない人もタイムシフト、頼む。C3部なんとしても見てくれ……