2013/11/21

お前をお兄ちゃんにしてやろうか!? 感想

MF文庫Jより2013年8月31日に発売されたライトノベル『お前をお兄ちゃんにしてやろうか!?』を読みました。
まったく買う気無かったんですが、うわー、すごい可愛いやんけ絶対面白いやんけ伝説のポケモンあげるから誰か買ってくれ~とか呟いてたらなんとfunyofunyoさんがプレゼントしてくださりました。本当にありがとうございます。またポケモン交換しましょう。

で、読んでて妹候補ちゃん5人がメイド姿で部屋にくるシーンで泣いたので感想書きました。


「妹という存在は本当に素晴らしいのか?」
そりゃキモオタならだれだって、可愛い妹が居て、依存して、依存されて、結婚して、幸せに暮らす妄想はしたことがあるだろう。
しかしそれは人間を駄目にする関係性なのではないか? そんな堕落のサイクルに美少女という尊い存在を巻き込んでしまうのは人間として最悪の行為なのではないか? そんな思いを抱きつつ俺は妹関連の作品をやり漁って来た。
だけど大半の作品では倫理における問題性を訴え、開き直るか、正面から向き合って克服してしまうか。そんなパターンばかりだった。最もそれは尊いのだが、俺の求めている答えでは決してなかった。
倫理的な問題など妹という、か弱く繊細な存在の前ではどうでもよいのだ。そんなことはこのインモラルで広大な情報社会において悩むべき問題点じゃない。
妹と結婚して、本当に妹を幸せに出来るのか。本当にそれで自分は幸せになれるのか。
錯乱した考えではあるが、俺は妹という共依存の存在を望みつつ、共依存という甘ったれた関係性を否定していたのだ。
この不毛な思考の連鎖に終止符を打ってくれたのが「お前をお兄ちゃんにしてやろうか!?」であり、今後10年間、妹という題材を描く創作はこの作品が提示してみせた到達点的な価値観を前提にせねばならないのは確かであろう。

さてこの「お前をお兄ちゃんにしてやろうか!?」
基本的な構造は孤独で問題を抱えた異常な人間たちが共同体を形成して、主人公が彼女たちの内に抱える問題を解決するというスタンダードな方式である。
だが、それらの作品とは絶対的に違う部分がある。それは個人同士の関係性が繋がった上での共同体ということだ。
「部活動」の様な組織的な関係ではなく、個人が個人と仲良くした結果形成された共同体というのがこの「レジデンス太子堂」という集合なのだ。
組織ではなく個によって模られた共同体は美しい。その上で、自己を少しでも実現しようと他者の力を借りつつ努力する、その姿に人は涙し、勇気を貰うのだ。

主人公の名は太子堂陽一。まあこいつはどうでもよいのだ。大事なのはこいつを通じて俺が彼女たちとコミュニュケーションが取れるという事実だけだ。妹候補の彼女たちは5人居る。

田宮世霊音さん。12歳中学1年生、ひきこもりではあるが確固たる価値観を持ち、その為に行動する力を持っている。ただ、彼女は社会を知らないのだ。俺は彼女に社会を教えた。インタネットの友だちと物をやりとりする際の適正価格を教えた。一緒に外にでる練習をした、世界の広さを教えてあげた。

日村友美さん。15歳高校1年生、FPSとプラモが好きな女の子だけど、少し暴力的で他者と協調する事ができない。俺は彼女に協力して何かをすることの楽しさ、合理性を教えた。競争は大事だけど、幸福は競争だけでは手に入らないという事を教えてあげた。

三島小百合さん。13歳中学2年生、誠実で、器用で、身の回りのこともなんでも出来て将来もちゃんと見据えて努力する事が出来る偉い女の子だけど、人のために頑張りすぎてしまうきらいがある。俺は彼女に頑張る事は大切だけど、それだけだと周りが見えなくなってしまうから、それと、俺の幸せだけじゃなくて、自分の幸せを追い求めて。自信を持つことが大事。そうしてくれたら、俺はもっとキミを好きになると伝えた。

立花優希さん。14歳中学3年生。背が高くてカッコよくて凛々しいけど、女の子っぽくないのを本人は気にしていて、そのせいで女性と話せなくて、直そうとしても空回りしてしまう。そんな女の子だ。俺は彼女に正しい女性としての振る舞い方、衣装を教えた。彼女は元が可愛いから、可愛い服を着けたらたちまち似合ってしまって、でも、まだ女の子と話せるわけじゃない。だから、これからも一緒に頑張ろうと伝えた。

大隈美佳さん。11歳小学6年生。無邪気で、お手伝いが好きな優しい女の子だけど、500円玉を集めるのが趣味で、お手伝いのたびにお小遣いを要求してしまう。俺は「お手伝いは金銭の為にするんじゃなくて、手伝う心が大切なんだよ」と教えなければいけないんだけど。出来なかった。

この作品では個人を通じて問題を打ち明け、検討し、解決に向けて努力することの重要さが描かれるが、当然それだけでは解決できない問題というのは出てくる。
大隈美佳さんの例がそれだ。俺は彼女に教育を施さないといけないのに、どうやっても切り出せなかった。
何故なら年上の人間がこうこうこうだと押し付けるのは不遜に思えたからだ。
共依存での共助の重要性ばかりにフォーカスされがちだが、このようにそれでも解決できない問題というのは確実に存在するのだ。
だが、それを打破してくれるのが他者ことケンタくんである。大隈美佳さんの友達であるケンタくんは、俺が言うべきだが言えなかった事を大隈美佳さんに伝えてくれていたらしい。ありがとうケンタくん、ありがとう他者。
つまりこれは共同体外で他者とコミュニケーションを取ることの重要性を示しており。個人だけではなく他者という双方向性を持った問題解決策を提示する辺りに作者の作家性、善良さが伺える。
単独でも、共同体でも解決できない問題があっても他者とコミュニュケーションを行うことでブレイクスルーは可能なのだ。

そうやって互いに検討を重ね、俺は彼女たちに、もっと一緒に頑張って正常な人間を目指そうと誓った。だが現実は残酷である。俺が彼女たちと過ごせる猶予はあと2日しかないのだ。 あと2日で、この中から1人を妹として選ばないといけないのだ。
この中から幸福にできるのは1人だけ。そこで前述の苦悩が闇の様に襲い掛かってくる。
「本当に妹と共依存することで幸福になれるのか?」
「それは甘えじゃないのか?」

その悩みに答えを出せぬまま、俺は機械の様にページをめくる。不意にメイド姿の妹たちが目に入る。妹たちが部屋に遊びにやってきたのだ。

世霊音さんは苦手だった掃除を手先の器用さを活かして進んでやってくれる。あんなに自分の部屋の掃除を渋っていたのに、まるで別人のようだ。

友美さんはお姉ちゃんとしてみんなに掃除を指示してる。不満が出ないように均等に接してくれて、わがままで自分勝手な妹だった出会った頃とは大違いだ。

小百合さんは食事を作ってくれた。マニュアル通りの、調べた俺の好物じゃなくて。俺に食べて欲しい食事を作ってくれた。自分の想いを素直に伝えられる子になれたのだ。

優希さんも女の子は苦手なはずなのに、みんなと協力して掃除をやってくれる。 女の子の前に立つだけで震えてたあの頃とは見違えるくらい、見た目だけじゃなくて芯もたくましくなった。

美佳さんは洗い物のお手伝いを率先してやってくれている。お小遣いのためじゃない。手伝ってあげたいと言って手伝ってくれている。

このメイドシーンはおそらく、レジデンス太子堂という共同体の崩壊を悲しみではなく、笑顔で、強く乗り切って欲しいという作者の善良な配慮であろう。俺の涙腺はその優しさに限界を迎えていた。

そして妹を決める日当日。情けないことに俺の決意は固められていなかった。
不可能なのだ。誰か1人を選ぶなんて。選んだところで、結局俺は依存してしまう……そんなのは嫌なのだ。このまま本を閉じて本棚に押し込めてやろうとさえ思った。そうしてしまえば、誰ひとり傷つかなくて済むのだ。
けれども、それでも誰かを選ばくちゃいけない。それこそが愛しい日常をくれた妹たちへの誠実な態度であると知っていたからだ。

「妹は決まりましたか? 陽一さん」
俺の背後に5人の妹候補たちが並んでいる。5人の中で、選べるのは1人だけだ。 こんな残酷な事があるだろうか。
悩みで押しつぶされそうになっていた。すると妹候補のみんなから、妹を決める前に話があるというのだ。話ってなんだ? ここで「私を妹に選んでください」と言われたら、俺はその子を選んでしまうかもしれない。だから、やめてくれ。そんな話は―――

「そばにいると私はお兄ちゃんにばかり頼ってしまうので、私はお兄ちゃんの妹にはなれません」

兄の支援を受けなくとも頑張ってみせる。それこそが美しい人間の生き方であると。世霊音さんは言ってみせたのだ。
馬鹿だ、俺はなんて馬鹿なんだ。彼女たちの強さを分かってあげられてなかった。分かった気になっていた。俺が居ないと彼女たちは頑張れないと。勝手に決めつけてたんだ。
彼女はなんて強いんだ。 そうだ。彼女たちのお陰で気付けた。
人は何かに依存したままでは強くなれないのだ。共依存は排他すべき関係性なのだ。
彼女たちは依存を必要としない強い人間を志した。いつか、強くなって、そして恋人としての関係を望んだのだ。
彼女たちが得ようとしたのは、妹という依存を前提とした立ち位置ではなく、恋人としての、対等な関係。
お互いが依存を必要とせず、2人身を寄せ合って楽しく過ごすというそんな理想的で善良な関係を望んだのだ。この決意は実に尊い。そうなんだ。俺が求めていた答えはコレなんだ。この決意こそが最も必要としていた覚悟なんだ。
だが時に決意と結果は伴わない。妹という立場を放棄するという願いは権威によって切り捨てられ、主人公は再度決断を要求される。
そこで彼女たちは問いかけるのだ、主人公に? 違う、俺にだ。現実に生きる俺という存在にだ。
依存じゃなく、助け合える関係。私はあなたの力になりたい。そういう決意があれば、きっと大丈夫だから。前に進めるから、だから彼女たちはページをめくる俺に問いかける。

「「「「「お前をお兄ちゃんにしてやろうか!?」」」」」


ありがとう世界。こんな自分に、こんな美しい人たちと巡りあわせてくれて。
頑張って社会で生きていきます。ありがとう。本当にありがとう……
苦悩は善良な妹たちによって打ち払われた。答えは得られたのだ。
これから先の決意は、彼女たちがするものでも、主人公の太子堂陽一がするものでもない。
この本を手に取り泣いているキミが、決意すべきなのだ。
ちゃんと考えて、悩んで、他者と検討してもいい、とにかくキミは彼女たちに誠実な返答を行うべきなのだ。
さあ! 答えは読者に委ねられた!! この一冊の偉大な書物の行く末! 決めるのはキミだ!
オタクどもよ!
思いおもいの答えを書き連ねよ!
声に出してもよい!
彼女たちに対するキミの誠意を見せてくれ!







僕はすごく悩んだ結果、田宮世霊音さんを選びました。2人で暮らして、一緒に自己実現しような。世霊音さん。いや、世霊音―――

2013/11/05

魔法少女まどか☆マギカ叛逆の物語

劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語を見てきました


そんでまあ全体の感想を言わせてもらうと、ああまどかだなぁと。終始、錯乱ミスリード演出、ミスリード錯乱、からの演出ミスリード錯乱みたいな感じでシンプルな脚本をそのまま視聴者に伝える気皆無でしたね。めちゃくちゃ頭使わされましたけど、やってることはホントシンプルでした。ホントシンプルなハッピーエンドでした。これを黒虚淵とか言ってる奴は小学校から倫理観を獲得しなおしてこいや。


物語はナイトメアという新たな脅威と戦うところから始まりますね。何故か死んだはずのみんなが生きてたりベベとかいう謎の生命体が存在していたりホーリクインデット(まどか、ほむら、マミ、さやか、杏子)が活躍したりします。正直ここらへんは茶番っぽいし頭使って見る価値ないなーって思いながら見てたんですけどOPでほむら以外のキャラクターが演劇してましたね。この時点で「ああ、ほむら以外のみんなは役割を演じてるんだな」ということはなんとなく分かりましたけど。まあ案の定ミスリードでしたけど。


モブ緑が上条恭介とかいう禁書とリトバスの合成品みたいな奴と上手く行かなくてキレます。そいつから生まれたナイトメアと戦う時に5人が勢ぞろいして変身シーン。この変身シーンですがTV版とめちゃくちゃ変わってます。なんていうか演劇みたいな感じ。捻くれすぎて気持ち悪い変身シーンでしたけどちゃんと意味がありましたね。TV版では正統派魔法少女物に見せかけるために可愛らしい変身シーンだったんですけど、映画ではわざわざそんなミスリードを誘う必要がないからカッ飛ばしてきたのかな~?? とか考えてました。はい、ミスリードでした。


まあケーキはマミとかキチガイみたいな意味わからんこと言い出すんけど「あっ、ここは茶番だな」と思って特に考えませんでした。ここほむらだけ訳が分からないまま役を進行してて、これは限りなく視聴者の気持ちを代弁してるんですね。つまりこの意味不明なシーンでほむら=視聴者の図式が完成するわけなんですよ。まあミスリードなんですけど。


そして、この死んだはずの5人が仲良く生きていてナイトメアという訳の分からない敵と戦ってる現状にほむらは違和感を感じます。そこで杏子を連れて、街の外に出ようとするんだけど、出れない。どこまでいってもどこまでいっても見滝原市から出ることが出来ない。ここでほむらと杏子は異常をハッキリと知覚し、視聴者と完全にリンクするわけです。 ミスリードだけど。


ほむらはこの事態を魔女の結界のせいと捉え、何故かマミが連れているベベ(首チョンパの張本魔女)を殺そうとします。んでまあなんやかんでマミVSほむらになるんスけどこの戦闘シーンがクソ熱いので要注目です。いや、ええもん見れた。これは別にミスリードとか関係ない(はず)です。


んでまあクソなんやかんやあってほむらが実は魔女でこの世界を作った犯人ということが分かって。

ここでキュウべえがネタばらし。
魔力が尽きて円環の理(まどか回収)に導かれる寸前になったほむらをインキュベーターが回収し、この世界と隔絶する空間に保管した。封鎖された世界の中で魔女となったほむらは無意識に杏子やマミと言った実存する魔法少女や緑モブ女や上条恭介、そしてなにより鹿目まどかを結界の中に呼び込んだ。ほむらが居た世界(叛逆におけるメイン世界)では鹿目まどかという人物は存在しない、そしてほむらは常々円環の理の事をこう呼んでいた「鹿目まどか」と。まあつまりこの鹿目まどかが円環の理の正体であることを突き止めちゃったわけです。この閉鎖空間で暁美ほむらの魔女を発現させ円環の理に導きに現れる鹿目まどかを観測して、鹿目まどかの力を制御下に置き、また元の絶望した魔法少女から魔女が生まれる世界に作り変えることがインキュベーターの目的だったわけです。
 まあなんやかんやで神まどかが送り込んださやかやベベが助けに来て、杏子やマミ、まどかの協力もあって閉鎖空間を撃破。インキュベーターの目論見を阻止し、ほむらはTV版最終回で望んだ通り、魔法少女の力を全て使い果たし倒れ、魔女になる前にまどかに救ってもらう。
完璧な結末です。ほむらは自分が望んだまどかからの救済を受けることに成功するわけです。なんでも一人でやってきたあの頃とは違い、仲間に助けられて、自分が望んだ最高の結末を迎える。そのはずだったのだけど……ここで序盤の執拗なミスリードが活きてきますね。ほむらはまどかとの対話の中で(省いたけど)芽生えた感情。あなたを辛い運命から開放してみせる。という気持ちを捨てられなかったんでしょうね。
ほむらは救済の直前、神まどかの力を奪い取り文字通り理に「叛逆」を起こした。宇宙の概念はまた作り変えられ、ほむらは神になる前のまどかを獲得し、自分がまどかの立ち位置に存在することに成功する。そして奪われたまどかに、自分が不必要になった暁美ほむらとしての存在を与え立場を逆転させた。円環の理に導かれたはずのさやかとベベは神まどかの制御を離れ現世に回帰し、杏子やマミは全てを覚えておらずそのまま生存した。かくして、世界は歪な形ではあるが完全な平和を取り戻すことに成功したのだ。まさにこの映画は暁美ほむらが世界に、インキュベーターに、理に対して叛逆する物語であった。


まあこんな感じのストーリーですね。誰も死んでません。むしろ全員生き返ってます。すごい。超ハッピーエンド。ほむらが理よりも愛を選んだことでみんながハッピー。革命はここに成った訳です。
ただの革命なら美徳であるがほむらが行ったのは紛れも無い叛逆である。最終回でまどかに誓った「最期まで魔法少女としての使命を果たして、まどかに導かれて救済される」という決意を自ら破ったのだ。よりにもよってまどかから能力を奪い取るという手段で。
 ほむらは自らが定めた尊い目的を達成することを拒み、醜い叛逆による平和を勝ち取ることを選んだのである。凄い。まさに悪魔的である。天使的な自己犠牲で他者の救済を望んだまどかと対極の行動で、ほむらはそれ以上の世界平和を勝ち取ったんですよ。終盤で、ほむらはインキュベーターに対してこれは愛だと言った。感情でも信仰でもなく愛。ほむらがまどかに抱いた想いはまさしく愛だったんですよ。ほむらは、愛を選んだ。ほむらにとってまどかは神ではなかった。愛すべき人間だったんですよ。そして最期はまどかの叛逆を予感させるシーンで終わる。あの世界は紛れも無く平和であるが、奪われ、平和を与えられたまどかはほむらに叛逆するであろうという表しですね。これは最高に悲しいと思うし最強に道徳的なんですよ。僕はあのままほむらが勝ち取った平和な世界を享受してほしいと思うんだけど、あの世界はそんな身勝手を絶対に許さないしまどかも自分の決意をないがしろにされたのはやっぱり、許せないことだと思う。キュウべえも遠からずほむらの支配体制へ叛逆を起こすだろう。祈りではなく叛逆で得た平和は長続きしないのだ……悲しい。


まあそんなワケでまどか☆マギカ叛逆の物語。終始ミスリードを誘う構成でした。中盤は頑張ったけど報われない話かな? と思ったら、その後は頑張れば仲間が助けに来てくれる話になってたし後半は自分の欲望の赴くままに平和を勝ち取る話でした。ミスリードの物量と質の高さはトップクラスですね。相変わらず虚淵はこういうのが上手いし、シャフトはシャフトで何気ないところで絵を使い回したりホントアニメを作るのが上手だなぁという印象です。

それとこれはまどか☆マギカ全体に通して言えることなんですけど、徹底的に他者の存在が排他されてますね。叛逆は特に顕著でした(というかそのもの)これは女子中学生の眼に映る世界の狭さの比喩ですね。その使い方が今作は特に目立ってた割にストーリー材料に絡まなかったしこれからの展開に関わってくるファクターになったりするんですかね。とりあえずほむらはもっと他者を信頼してほしかったというのが正直なところ。さやかとの対話からも逃げ、まどかから強引に力を奪った。ここらへん各所で言及されてる通り、時間を止められる能力を持つが故に他者を基本的に見下してるんですなァー。まどか☆マギカがほむら視点の話であり続ける限り、他者は絶対に描写されないと思います。逆にまどか視点ではモブキャラが結構活発なんですよ。これはアレですよね、ほむらはまどかと誰かとそれ以外っていう認識しかないんですよ。だからこそサイコレズみたいな扱いを受けるし(実際その通りなんだけど)悲しい。ほむらに対して一つ踏まえて欲しいのは、どういう手段であれ、いずれ叛逆が起こると約束された刹那的なものであれ、ほむらは1つの平和を成し得たということです。それは膨大な魔力を持つまどかでさえ出来なかった。この行為に宿る優しさはそれが全てまどかの為のものであっても尊いものなんですよ。ありがとう暁美ほむら……。


最後。EDとスタッフロールが流れてしばらく、また映像が映ってほむらが劇っぽい動きをするんですけど、これはアレですかね。やっぱり演じてるってことなんでしょうかね。コードギアスR2ラストのルルーシュの様な悪人を。自分が再構築した世界での役割を。それにしては構築が周到だしもう分かりませんわなァー。続編はないとのことですが、もしあるとすれば、それはほむらが叛逆される物語になるんでしょうなぁ。 僕はあのほむらが力づくで築きあげたあの世界が好きだから。なるべく壊してあげないんでほしいんですよ。革命のあとには保守が待っている。それはやっぱり、出来ることなら認めたくないじゃないですか。

たまゆら~もあぐれっしぶ~感想

たまゆら~もあぐれっしぶ~を見ました

名前がややこしいですね、未だに覚えられてないです。たまゆら~hitotose~でも思いましたけどこういうタイトルの付け方最高にダサいしやめてほしいですね。かといって「けいおん!!」みたく1期2期の区別がつけにくい名前にするのもそれはそれでめんどくさいし困る。「2」とか「NEXT」みたいな形にするのが結局無難ですけど一番良いんじゃないですかね。というわけでこのブログではたまゆら~もあぐれっしぶ~のことをたまゆら2期と呼びます。ところで2期は多分ありませんがC3部というアニメが面白いので見てください。



たまゆら2期はニコニコの一挙放送で見ました。滋賀県じゃ映らないのでこういうのホント助かる。まあニコニコとかバンダイチャンネルで放送はやってたんですけど正直OVAや1期がまるで面白くなかったのであの佐藤順一原作脚本監督と言えども、ネットでわざわざ追いかけて見る価値はないですわなァー。とか思って見てなかったんですよね。ぶっちゃけ冷静な判断だったと思います。まあ間違いだったワケですが。



たまゆらが放送されてる最中僕はTwitterで「あ~~たまゆらつまんねーよ~~佐藤順一クソだよ~~」とか呟いたりパワプロ2013のサクセスで斎藤佑樹をそこそこ強い能力にして遊んだりしてたんですね。それぐらいつまらなかったんですよ。


たまゆら、どういう作品かっていうとAmazonレビュー見れば本編見なくても分かるかもしれません。一貫してほのぼのとした世界観の中でクソ優しい女子高生とクソ優しいその家族やクソ優しい街のみんながクソ優しい女子高生の生き様をクソ優しく見守るという内容でホントつまらないんですよ。
こういうの好きな人はホント理解できない。佐藤順一はこういう系統の作品を作る人だけど、偉大なる過去作品は原作が違ったり企画が違ったりして、佐藤順一とは違う色の毒が入ってたんですよ(ケロロ軍曹とかその際たる例じゃないですか)そうやって成功していた。それが佐藤順一だけの作品となると無味無臭くさくて画面見てられないです。Twitterでも「佐藤順一は企画力ねークソだなー」とか呟いてました。


まあそうやってダラダラたまゆら見てると気づくことがいっぱいあるわけです。そもそもたまゆら、現実の竹原市を舞台にしてたり、実際のアーティストをアニメに出したり、完全に実存する世界の女子高生の日常に移入させる系の作品なのにカメラとかももねこ様とか視聴者が俯瞰的になるパーツガンガン出してくるんですよ。佐藤順一らしくないことにこの時点で演出方針がブレブレです。今考えれば塙かおるさんの「かおたんゆーな!」というセリフもアニメキャラであることを意識させるセリフでした。このセリフから分かるのは、たまゆらのキャラクターはアニメキャラなんですよ。現実には生きてないんですよ。もしリアルで勝手にあだ名付けられて呼ばれたりなんかしたら僕は発狂してパイプ椅子振り回しますよ。
現実で(友達とはいえ)勝手にあだ名つけるなんてほとんど現実ではありえない行為だし、もしあったとしたらマジでクソうざいですよね。だから「かおたーん」「かおたんゆーな!」という一連の流れは、彼女たちがアニメキャラであるという事実を示す演出なんです。


話を戻して、僕たちは現実に生きる一般人なのでアニメキャラに感情移入して楽しむって事は不可能なんスよね。それを擬似的に可能にする手法もあるんだけどたまゆらは一切使ってないしここでは言及しません。つまりたまゆらはアニメキャラクターの日常を保護者目線(俯瞰的視点)で見てくださいってアニメになるんだろうけど(ならないといけないんだけど)きんいろモザイクの様なキレッキレのギャグがあるわけでもゆゆ式の様な現実を意識した会話を主軸に置くでもなく、
何の変哲もないアニメキャラ女子高生のほのぼの日常が延々と佐藤順一画面(氏の過去作で何度も見せられて飽々してる画面)で繰り広げられるわけです。つまり面白味がない。楽しみ方がないわけですよ。我々視聴者はこのたまゆらという作品を享受する方法を完全に絶たれたということです。厳しい。というか、ありえない。C3部はこのへんの調整が完璧で見ててとても心地が良かったですね。


そんな事を考えながらまあボーッとして見てたらいつの間にか最終回でああこんなもんかー。みたいな妙な納得をしてたんですよ。佐藤順一はこの程度だったのかと。こんな演出の初歩すら出来ない無能監督だったのかと。んで最終回終わって、ニコニコ生放送は「嫁コレ」っていうたまゆらが出てるアプリのCMに入ったんですね。 そこで全ての真理を、この作品のギミックの全てを見つけました。価値観が完璧にスッ飛びました。


その「嫁コレ」 のたまゆらのCMが本当にエロかったんですよ。グレゴリオ暦最高のエロとの呼び声も高いGJ部並みのエロさでした。いやぁ、本当にエロかった。そのエロから着想を得ることで真理に到達できたんですよ。

それでは、佐藤順一氏がたまゆらに仕掛けたの壮大なギミックを1から語っていきます。

 たまゆらのキャラクターはみんな良い子、良い人ばかりなんです。
中盤でかなり口の悪いクソ捻くれインテリオヤジが出てくるんですけど、主人公の沢渡楓さんは圧倒的な精神的寛容さを発揮して、その人すら許容するんです。分かりますか? これは余裕です。中流家庭に生まれ容姿は端麗、まだ十分なモラトリアムをその身に残し、将来もそれなりに見据えている女子高生の余裕です。そのありあまる余裕をもってロリ容姿の女子高生が気持ち悪い性格の捻くれたおっさんを許容する。この事実を精神に受容させることで自己精神改革が行われます。この自己精神改革を発現させた状態でたまゆらの嬢ちゃんたちを見てみるとエっろい、エっろい。エロ過ぎる。ここに、佐藤順一によるアニメを用いた他者の精神改革が完了したというわけです。


俯瞰的視点と移入的視点をアナーキーに作品内に混在させてたのも現実は成し得ない沢渡楓さんの超度精神的寛容さをアニメーションに違和感なく落としこむための錯乱でした。沢渡楓さん達が他者がどうあろうとも許容していくその姿勢は本当に素晴らしい物だし真理性が極めて高い。このどんな他者すら許容していく姿勢は実に尊いのですがそれを認識するのは自己精神を改革しなくちゃダメで非常に難しいんですね。佐藤順一氏はそれをエロさという看板を使って作品内の至る所に気付きの機会を置きまくって、たまゆらを視聴した他者の脳を片っ端から改革していくことで沢渡楓さんの持つ美しい感情と姿勢を視聴者に一寸の誤解も生まれないレベルで伝達するギミックになっているんですよ。いや、これは本当にスゴイことですよ。


 勿論このギミックの存在を知らないままたまゆらの視聴を終えてしまう者も数多く居るんですよ(僕もその1人になりかけるところでした)。それは仕方のないことでそれに気付けない人の知性が悪いと見下してはいけないんです。ただ、たまゆらのスゴイところは、気付かなかった人でも差し障りの無いそれなりに感動するっぽいエピソードを盛り込んである程度の売り上げを確保したという点です。映像芸術は確かに素晴らしいかもしれないけど、資本主義は素晴らしいだけではやっていけない。大衆に受け入れられないと意味がない。この手法を盛り込んだからこそ安定した売り上げを築き、OVA、TVアニメ1期、2期とシリーズを続ける事が出来たんです。だからこそ僕も2期の最後の最後でようやく気づくことが出来た。
今思えばたまゆらは気付きの機会を視聴者に多く、より多く与えようとしていた作品でしたね。クソ差し障りの無いクソほのぼのストーリーも、2期をやって気づきの場を増やす為の一環です。この辺の制作手法はC3部と対極にありますね


たまゆらという作品を通じて分かった佐藤順一という人物は、とにかく 女の子を可愛くみせよう、他者に女の子の可愛さ、エロさを知ってほしいと考え、それを実行する身体性と実力を持つ素晴らしい人物でした。氏の新作、心を震わせてお待ちしています。頼む。




最後に、これは良いコンテンツになるぞ。とおもったので僕のTwitterたまゆら実況のツイートをまとめて掲載します。






 佐藤順一。女子高生の日常描くのやめてほしい


 というかたまゆらは全体的におかしすぎる。女子高生の日常に移入させる系の作品かと思えば写真部とかももねこ様とか視聴者が俯瞰的になるパーツ出してきや がってよー。だとしたらそれは保護者目線で見てくださいってことなんだろうけど、保護者目線で女子高生のほのぼの日常を楽しめる人間がどれぐらい居るのかっていう話スよ。俯瞰的にさせるならガンガンストーリー動かしてくれ。頼む。そう、それはC3部の様な(宣伝)


 C3部は俯瞰と移入の双方で違う面白さが提供されてて、なおかつどっちにでも視聴者が切り替えられるように演出も配置されててとにかく上手いのね。バラバラであることが一貫してるしその質が高すぎる。のね。ホント見てくださいC3部


マジで高尚な精神を既に獲得してるキャラクターを女子高生にするのやめてくれ・・・、女子小学生にしてくれ・・・頼む・・・


乳首出してくれ・・・頼む・・・


たまゆらの下瞼を点々で描くの雑魚ロリっぽくて最高に可愛いんだけど顔が縦に長すぎるせいで女子高生になってるのホント悲劇でしかない


 やっぱ佐藤順一企画力ないな。作品に何も一貫性がない。監督や演出やらせるだけなら良いもん作るんだけど・・・たまゆらの信じられないぐらいダサい映像を俯瞰でガンガン見せるのホントやめてくれ・・・


 たまゆら、俯瞰的な視点連発しておいて現実の人間ゲストで出すとかふざけてんのか


 佐藤順一ある程度凄いと思ってたけど今日からそびえ立つ糞でしかない。ARIAも全否定する勢いでキレてる


 マジでやめてくれ・・・。女子高生にしたのはロリ絵柄で高身長っていうギャップのエロさを出そうとしてるって理屈で納得したけど、マジで何がしたいのか分からん。佐藤順一頭イカれたんじゃないのこれ


 カメラっていう映像構造意識させるモンをメインに据えて、キャラクターも如何にもキャラクターキャラクターしてるキャラクター人間ばかりでこれはフィク ションですよアニメですよーみたいな雰囲気出してんのに実際のアーティスト出したり現実の街とコラボしてまちおこしとかふざけてんのか


 アニメと視聴者舐め腐るのもいい加減にしろや。マジでありねぇだろコレ。佐藤順一二度とアニメに関わるんじゃねぇぞ


 もう佐藤順一作品全否定する。セーラームーンもケロロ軍曹もカレイドスターもARIAも全否定する。佐藤順一はクソだ(キレてる)


 描きたいものを色々な角度から描くとかならともかくコイツら(長井龍雪佐藤順一)は色々な物を同じ角度で永遠描いてるからクソムカツんスよ。それはもう手抜き以外のなにものでもないでしょ。やめてくれ


 たまゆら最高だった


 エロ過ぎた。佐藤順一の伝えたい事が完全に理解できた。


 佐藤順一。似たような映像ばかり作るけどソレに込められたメッセージはまさしく誠実であるし、どうやったら女の子が可愛く見せられるか真剣に考えた末の素晴らしい考えを見事に作品にしてた。すごすぎる。これはどのアニメ監督にも不可能な試みと実装なんじゃないですかね。ホント素晴らしい人物だ
 

 俯瞰的視点と移入的視点を混在させてたのも精神的寛容さをアニメーションに違和感なく落としこむためだったし、ぽって達が他者がどうあろうとも許容していくその姿勢は本当に素晴らしいし、ここに1つの到達点を見た。


 ぽってたちが実存するのか、それともフィクションの人物なのかは視聴者の判断に委ねてて、ただこの作品のメッセージは「存在が現実であれ、フィクションであれ、ぽってたちは全て受け入れ許容しますよ」って言ってるしそれは間違いなく尊い


 ダメだ。たまゆらで完全に脳がやられた


たまゆら、虚構と実存、双方に対して精神的寛容さ(尊い)をコンテンツ全体でアピールすることで現実的ではない他者への許容をもってした平和主義思想を脳に植え付け。そうやって植え付けられた思考でもって画面を見て初めて作品に隠されたエロスが視認できるようになっているギミックです。


 このギミックにはマジでビビったし度肝抜かれた。ある意味C3部と対極にありつつ、根本的なところでは同じ作品ですね。


 というわけでC3部一挙放送はいよいよ明日です。


 【ニコ生(2013/11/04 17:00開始)】ニコニコアニメスペシャル「ステラ女学院高等科C3部」一挙放送 #C3部 nico.ms/lv155374533


 っていうか佐藤順一凄すぎる。一旦気づいてしまえば全てが噛み合って一つの真実(エロさ)に到達するこの構造を作れるのホント天才だ・・・


 当日見れない人もタイムシフト、頼む。C3部なんとしても見てくれ……


2013/10/26

挨拶とか

爆速で新文化に適応していくんで各位、生存の共有よろしくお願いします。