ラベル 映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020/03/14

映画を見た5 氷菓



省エネ主義をモットーとする折木奉太郎は、姉の命令で部員ゼロで廃部寸前だった古典部に入部する。
そこに一身上の都合で名家の令嬢・千反田えるも入部。
好奇心旺盛なえるに引っ張られた奉太郎は、潜在的な推理力を開花させ、学園に潜む謎を解き明かしていく。

90点


お世辞にもこの映画の評判は良くない。
「氷菓 実写」で検索すると「爆死」「ひどい」 といった実写化映画あるあるのサジェストが出てくるし、実際に売り上げや観客動員は全く芳しくなかったそうだ。
アニメ版が京都アニメーション制作で高いクオリティを誇ったこともありハードルが上がっているのは否めないが、それにしたってこの映画のウーン感は中々のものだ。

データベースは結論を云々

主役、折木奉太郎の友人役の福部里志役の人は中々エキセントリックな顔立ちをしている。これはこれで里志のウザさが出ていて良さもあるのだが、原作ではそれなりに容姿が整っていると評されている里志役がこの演者というのは初見のインパクトは絶大だ。




私、気になります!

そしてヒロイン千反田える役の広瀬アリスという役者。この役者が問題だ。
素人目に見ても演技が下手で粗が目立つし、顔がケバ濃すぎて田舎の豪農の娘という感じが全くしない。
原作~アニメのえるたそが好きな人ほど拒絶反応は大きいのではないか。





何より度肝を抜いたのが舞台となる神山高校の校舎だ。
グラウンドを踏み荒らさないと校舎まで辿り着けない驚愕の構造に目がいくが問題はそこではない。





アニメ、氷菓で描かれる神山高校は作者米澤穂信の母校もである岐阜県立斐太高等学校が忠実に再現されている。
氷菓の舞台はまさしく岐阜なので斐太高校を舞台とするのは何ら自然なことだ。
それが全く違う校舎になっていたショックは大きかった。

↑の校舎は群馬県にある校舎で、使用されたのは外観のみらしい(内装は栃木県の校舎を使ったようだ)
中の使用は難しくとも、外観のみの撮影なら斐太高校でも可能だったのではないかと思わざるを得ない。
何よりグラウンドを踏み荒らさないと校舎まで辿り着けない構造がおかしい。


奥の部屋

そしておかしいのが古典部の部室だ。
古典部というのは部室棟の片隅にある小さな部室……のはずだが、この映画の古典部はどう見ても音楽室だろという場所にある。





部屋の中もまるで音楽室かのように広い
こんなにスイッチがたくさん付いてる古典部があってたまるか!
隠す努力ぐらいはしてくれ……







と、ここまでこき下ろしたが実写版氷菓だが、感想としては非常に良い映画だった。




中盤からはアニメ版でも使用された岐阜県高山市の聖地をふんだんに使用することで氷菓感を増してきたし、千反田家の豪邸などは雰囲気が出ていてとても良かった。

原作やアニメでは淡々と進められていった氷菓の真相も映画版ではドラマチックに仕立て上げられていた。
原作の淡々とした雰囲気が好きだという人もいるだろうが、1本の映画として私はこの実写版の演出が好きだ。
折木奉太郎のバラ色の青春観と関谷純の青春のリンクも分かりやすく行われており、この映画で初めて氷菓に触れる人でも十分楽しめる作品に仕上がっていたと思う。
むしろこの映画で氷菓に初めて触れることで先入観なく実写を楽しみ、そこから原作orアニメを見ていくのが最も効率的な氷菓の楽しみ方ではないかという気さえしてくる。


氷菓ファンの人はビジュアルを飲み込むのに時間がかかると思うが、中々どうして良い作品なので食わず嫌いをせずに是非見て欲しい。アマプラやNetflixなど各種サイトでどこでも見れる作品のはずだ。

2015/09/21

映画ピクセルが最悪の映画だった


な、なんだこのワクワクするポスターは……こんなの絶対神映画じゃないか!

これは公開日に見に行くっきゃねえぜ!!








見に行った結果→ゴミ








クソ






うんち 








 でべそ






最近書いた記事一覧見直してるとどうも作品の批判しかしてなくて、うーんこれはいかんなあと思いつつも今回も批判記事です。
というか最近、面白い、素晴らしいと思う作品には素晴らしい以上の賛辞は不粋で必要ないと思っていて、そういう変化もあってか否定の記事ばかりになっているところもある。

一応言い訳のつもりであの花を褒める記事を1つ前に上げといたんで、まあこれで帳消しでしょう(謎理論)

閑話休題







映画ピクセルのダメな点を挙げていくとキリがないが、まず全体的にジョークが下品。下品なだけならまだいいがかなりつまらない。下品でつまらないジョーク。これは最低です。


下品で雑。この映画を象徴する言葉だと思う。



レトロゲームリスペクトしてるんすよ~w 面をしておきながらプレイ中に入力できやしないパックマンのチートコードや上段まで登らずハンマー投げてドンキー殺すとか原作へのリスペクトを全く感じない。
挙句の果てに最終戦で流すBGMがQueen。そこは原作BGMのアレンジなり8bit音源だろ
劇中に最近のゲームはリセットすればいい昔のゲームは~みたいな話があったがCoDでリセットする必要はない、昔のゲームの方がリセット回数は明らかに多いんですよね。
要するに昔のゲームも今のゲームもプレイしてないのがバレバレ。

対して昔のゲームに情熱も持ってないのにゲームを題材にすればオタク客を呼べるから題材にしただけのクソ映画です。解散。





まだ悪口が言い足りない。




まあ少しでも遊んだことがある人ならわかると思うんですけど、レトロゲームってめちゃくちゃ難しいんですよね。
100回程度やりこんでもほとんどの人はクリアすらできないでしょう。
言い返せばボリューム不足を難易度で補っていたとも言えますが、とにかく難しかった。
だからこそクリアした時めちゃくちゃ嬉しくなるんですよね。

割りとゲームの本質は失敗することにあると思ってて、失敗するからこそ成功した時に失敗した悔しさの数百倍のエネルギーで嬉しいんです。

ピクセルとかいうクソ映画は当然原作ゲームへのリスペクトなど欠片も配慮していないので主人公たちは1回も失敗をすることなく鬼畜ゲームをクリアしていきます。ふざけろ。
失敗しないゲームを遊んで何が楽しいんだ? となってしまう。


それこそカッコいいヒーローが悪い悪役をバッタンバッタンと薙ぎ倒していくならともかく、気持ち悪い顔した下品なジョークばかり飛ばすオタク共が慣れ親しんだドット絵のキャラクターを失敗もせず倒していくストーリーのどこが心地いいんだ。逆に腹が立つ。










主人公一味もクソですよ。
どうやら主人公は「冴えない中年オタク」らしいが、バツイチでそれなりに金があり大統領との親交も深く会話ではジョークを飛ばしまくる白人を冴えない中年オタクとは言わない。

また仲間の1人にゲームの美女キャラクターが大好きな奴がいて、 その美女と会うことを毎日夢見てる糖質がいるんですが、終盤でそのキャラクターが実際に出てきてなんか仲間になって結婚して子供を作ります。
僕はこういう展開が一番許せないですね。どうして自分の夢が叶わないのに画面の中の糖質がウハウハしているところを見なくちゃいけないのか。そもそもオタクの夢なんて叶わなくていい。
間違いなくオタクが冒涜されていると感じた瞬間でした。



あと最序盤に近所の小さい女の子から金を奪ってゲームセンターに遊びに行くシーンがあるんですけど、そうやって巻き上げた金でゲームを遊んでおいて「あの時代のゲームは良かったな~w」みたいな話をされても嫌悪感しか感じませんね。
典型的な老害の犯罪自慢でしかない。





(2015.10.8追記)
そういえば映画ピクセルの話。この映画は現実では冴えなかったりどうしようもなかったり犯罪者だったりするだけどゲームは上手いオタクが集まってワチャワチャするって話なんだけど、実際のゲーマー、特に全1だったりプロで金貰ってるようなガチのゲーマーって良い人や社会的にも地位がある人が多いんですよね。
こういうのは競技性のあるゲームを少しでもやってれば簡単に分かる。
どのジャンルも全1の人というのは人格的にも普通の人だし、異常な正確の人物というのはいないわけです。

日本で3人目のプロ格闘ゲーマーのときどさんも「マナーの悪い一流選手は存在しない。本当に強いプレイヤーはみな「いい人」。格ゲーとは、取り組む姿勢が正しい人間が勝つ世界なのだ 」という言葉を残している。ゲームのプロフェッショナルというのは本当に真摯に勝負に挑む世界なんですよね。

だからオタクじゃない一般人の方々が想像するような「現実ではキチガイみたいな行動言動を繰り返すけどゲームはめちゃくちゃ上手い奴」なんてのは妄想にしか過ぎないわけです。
幻想です。
日本にニンジャはまだ居るレベルの勘違いです。
「ゲームはめちゃくちゃ上手い」レベルまでは頭のオカシイ奴はいるだろうけど、全国大会で優勝なんてのは絶対に不可能です。それはゲームの長い歴史の中で身を持って証明されてます。
そういう「ハイレベルな世界」、「プロフェッショナルな世界」を一切鑑みずに、「オタクはくさくて気持ち悪いけどゲームは上手いだろう」みたいな訳の分からん偏見で作られたのがピクセルとかいうクソ映画です。
分かるか? 俺はこの映画を見てる時終始馬鹿にされてると思ったよ。
俺じゃない。プロフェッショナルがだ。
俺の大好きな世界を思い込みと偏見だけで堂々と馬鹿にするクソ映画がピクセルです。
絶対に許すな。

まあしかしピクセルは対戦格闘ゲームの大会ではないのだから対戦格闘ゲームとくらべてあーだこーだ言うのはオカシイというのは分かる。しかしアーケードゲームも人格の普通さが一定量求められるジャンル、そういうコミュニティーであんな異常者が強くなれるのはおかしい。異常者はそもそもゲーセンから叩きだされるだろうがよ。
そういう点も含めて、本当にオタクを舐め腐った映画だ。

仮にあれが完全フィクションの話なら俺だってこんなどーでもいいことネチネチ言わんよ。
けど実際のゲームとゲームキャラ持ち出してきて実名の人間も使ってゲー ムファンのあなたに送る!! ゲームキャラが現実に現れた! みたいな宣伝しておいてこういう侮辱を全方向にバラまいてんだからヘイト稼ぎなんてもんじゃないんだよ。

なんなら言うがピクセルを褒めてる人間でゲーマーなんて1人もいない。大抵しょーもない、たまにちょっとゲーム遊んでゲーム好き名乗ってるようなライト層ばっか。
いや別にライト層を否定はしないが、「昔のゲームあまり知らなくても楽しめましたw」みたいな吐き気のする感想は本当にやめてくれ。
それはお前がゲームの事を、オタクのことを何も知らない薄っぺらい程度の知識しかないから”こそ”楽しめたんだ。履き違えるんじゃあない。
(追記おわり)






なんか結構なネタバレをしたけど別にいいでしょう。
ウンコの成分知って落ち込む人はおらんはず。


下品で雑
本当にクソ映画で、じゃあクソ映画ならクソ映画でそれはいいんですけど、完全にオタクとオタク文化が馬鹿にされ舐め腐ってられたからもう許せなくなった。
どんなクソ映画でもどんなクソアニメでも許容はできるし楽しめるんだけど、オタク文化を馬鹿にされるのだけは我慢ならない。



どうでもいいですけど、このピクセル他所でも結構ボロクソ言われてる低評価作品なんですけど、それでも面白いっていう人はそこそこいるんですよね。
僕のフォローしてる人にも4~5人はピクセルを褒めてた。
そういう人たちの感想ツイートに決まってた文句がこれ

「元ネタのゲームはプレイしたことないけど楽しめました」

はい



じゃあ鬱憤も晴らしたところでピクセルの良かったところを振り返ってみましょう。


CG
そこそこ迫力があって良かった。CGは良かったのだが効果音はもう少しこだわってくれよ。やっぱりこいつらは誰も原作をプレイしてないんだなと感じた瞬間以下略

ED
EDはなんとあの中田ヤスタカ氏だった。いつものようにキレッキレな音楽にED映像もドットで映画の内容が再現されておりかなり良いです。

正直このEDだけでもピクセルを見に行った価値はあると思う。
まあでも途中で曲の尺が切れてそれから2分くらい何もないエンドロールを見せられるのでやっぱりクソ


たまに思い返すだけで自分でも信じられないぐらいブチギレて許せなくなるのでやっぱりクソ











2015/06/27

劇場版ラブライブをボロクソにけなす記事



ラブライブ! The School Idol Movie

















本当に酷い出来だった。俺はあの瞬間間違いなく地獄を見ていた。
ゴミの山に執拗に泥を塗りたくったらこういう物が出来上がるのかという感じ。
テーマとしてはタイトルにあるようにスクールアイドルの素晴らしさを伝えようということなんだろうけど、そもそも1期2期通して劇中にアライズとミューズの2組しかスクールアイドルが出てないのに何がスクールアイドルの素晴らしさなんですかね。
俺はミューズとアライズしかスクールアイドルを知らねぇよ。
もしかしてこの脚本家はラブライブがガルパンの様に様々なスクールアイドルと戦いを繰り広げながら親交を深める物語だとでも思ってたんだろうか。
そう思いながらスタッフを調べたら1期2期の脚本を務めた花田十輝だった。なるほどね。

ラブライブの演出志向として、ライブの観客を描かない、ライブの装置(スピーカーやマイク)を描かない、ある種幻覚演出的なアレが多用されるんですが、空港から帰ってきてファンに囲まれてるのにライブを見てたファン、TV放送を見てたファンを一切描かないのは惨めなぐらいお粗末。
この演出を意図してやってるというのはちょっと考えたくないですね。
そもそもラブライブってこの「ファン」の扱い方が非常にぞんざいで、「どうやらミューズの人気が出てきたらしい」という情報をネットの再生数だとか学校でチヤホヤされるだとかそういう方向でしか表せてないんですよ。本当に馬鹿なんじゃないか。あと女しか居ない。視聴者である俺の立ち位置がない。
「ミューズの9人の視点」ということならそれこそファンを描かないのはおかしいのであってね、まああの9人にとっては、自分と自分の周りの人間が大事でファンなんかどうでもいいということなんでしょうけど。そういう意味で彼女たちがスクールアイドルにこだわる意味は分かる。

対立煽る訳じゃないが「AKB0048」、「アイドルマスター」ではこのファンの描き方ってのをすごく繊細に、丁寧に描写して向き合ってるんですね。AKB0048では丁寧にアンチの存在まで描いていて、アンチとどう接するか。というところまで踏み込んでいた。
そして我々はアイドルマスター18話を永遠に忘れないだろう。












そういう素晴らしい作品群を見てると本当にラブライブがファンという存在から目を逸らしてるのが分かる。
逆にこの雑な方針が活かされたのがラブライブ1期3話で、この頃は3人しかメンバーが居なくてファンなんて誰も居なかったからこそ3人だけで歌う、観客はほとんど居ない初ライブがすごく感動的に写ったんですね。俺はボロ泣きしたよ。
それ以降はまあお察しですが。
幻覚演出も僕は最初「ミュージカル的な演出なのかな?」と思ったんですけど全然そうじゃないし、どうやら単にライブをやっているだけらしい。劇場で見てる時俺は何でこんなミュージックステーションで流れてそうなPVモドキを見ないといけないんだ……とずっと自問自答していた。
ライブシーンが本当に楽しくない。
そもそもライブの魅力ってクソデカいスピーカーとか、絶叫するファンの姿があってこそなんですよ。それ省くってことは単純に口パクの訳わからんPV撮る気しかないってことでしょう。そんなのYouTubeでいくらでも見れるわ。
幻覚演出を使うなら車の上に半裸で乗って深夜高速を爆走するぐらいはやってくれないと絵的に面白くない。











別にラブライブに半裸で車の上に乗って爆走しろと言っている訳ではない。
 

ライブに関しては3DCGの切り替え方がチグハグ過ぎて見てられない。違和感しか感じないし何なら1期アニメOPの方がまだ違和感が少ない。あと3DCGはロングショットで9人が同じ動きをするぐらいにしか使われたなかったし、全然迫力がない。
大きい動きをさせるためのCGじゃなく、作画の労力を節約するためだけのCGでしたね。そんなに作画節約したいならアメリカの背景でも写してそれっぽい絵にしとけや。
まあここは劇場版アイドルマスターでもミスってた部分でもあるし難しんだろうけど。
 そんな感じで、何も考えずにライブ作ってるんだなということだけがヒシヒシと伝わってきたライブシーンでしたね。

ちなみに3DCGといえばストライクウィッチーズというアニメが世界最高峰の切り替えの上手さを披露してくれるので是非皆さんストライクウィッチーズ見ましょう。


あと曲ですが俺好みじゃない。
という言葉で済ますにはあまりにも不備があると思う。
そもそも1回聞いただけの曲にそない感情なんか抱けるかボケ言う話しでね。
アニメのOPとかEDは何故魅力的に感じれるのかというと何度も何度も聞かされるからですよ。1回聞いただけの曲に思い入れは持ちにくい。

ここらへんアイドルマスターが良い見本だと思う。まず作品が始まるとテロップと共に聞き慣れたTHE IDOLM@STERが流れてくる。聞き慣れた、何度も聞いた曲だから当然観客のテンションはブチ上がる。俺はこの時点で泣いている。そして途中で挿入されるラムネ色 青春。吹き抜ける風のような気持ち良いメロディと共に合宿を楽しむアイドルの姿が映しだされる。ああ、最高だ。あと水着。
オタクは水着を見るとテンションが上がるし、挿入歌が流れるとテンションが上がる。このダブルパンチを序盤で放ってきたのは本当に凄まじかった。
そしてなんと言っても主題曲であるM@STERPIECE。このM@STERPIECEは最終盤を彩る曲なんですが、実は序盤の内にインストゥルメンタルという形で何度も何度も流されるんですね。
だから終盤でこの曲が流れてきた時、「初めて聞く曲なんだけど、聞いたことある!」という現象が起きる。いやぁ劇場版アイドルマスターは本当に凄かったですね。

閑話休題
このようにアイドルマスターは初めて聞く曲でも視聴者が楽しめるようにありとあらゆる工夫がこらされていたんですが、ラブライブはそういうフォローが全く無かったので、そもそも曲の良し悪しを語る域に達してない。

ちなみに最後のライブの脇マンコはヤバい。映画館でチンポ出そうかなと迷ってしまった。
アレ見るためだけに複数回通う人の気持ちは分かる。



シナリオに関してはもうアレでしょう。キツイ。
ちょっとだけ映画けいおんに構成が似てるとなとは思ったけど、細部でありとあらゆる面でのクオリティが違いすぎるので対比にすらならん。 
スクールアイドルの素晴らしさ云々言っておいて出てきたスクールアイドルが全員モブ顔ってなんやねん。
本気でブチギレそうになった。お前スクールアイドルの素晴らしさ伝える気ないだろ、と。
「スクールアイドルみんなで作るライブ」と銘打ってるのにミューズが終始中央に収まってるのはもはや笑えるレベルだ。スクールアイドルみんなで作る(ミューズの)ライブでしたね。劇場で終始頭を抱えるはめになった。

細部を突くと「叶え!みんなの夢!」というキャッチコピーなのに誰も夢に挑戦しないし、そもそも夢の存在が描かれない。誰の夢も叶わない、顔が良い女子高生がイチャイチャしてみんなにチヤホヤされるだけの映画なので、顔が良い女子高生がイチャイチャしてみんなにチヤホヤされる映画が見たい人は楽しめるかもしれない。

ちなみにこのイチャイチャの部分も僕は大嫌いだ。劇中で数回ほど顔に唇近づけてルージュブワァッ!みたいなシーンがあるんですけど本当に下品でイヤになりますね。
アニメのキャラのルージュに需要はあるのか。国民の民意が問われる。
途中でかよちんが突然泣きだして、ご飯食いてぇーーー!って叫ぶシーンがあるんですけど、僕はそのシーン、ああ、かよちんどうしたんだろう、何かイヤなことでもあったのかと本気で心配したのにご飯食いたいだけでしたという茶番オチ。
いや真面目にね、冗談でキャラクターに泣き声出させるべきじゃないんですよ。映画館だと声が響いてビクッ、ってなるし、こういうの繰り返してるとクライマックスでキャラクターが泣くシーンすらもギャグに思えるじゃないか。
とか思ってたら最後までキャラが泣くシーンはありませんでした。なるほどね。

キャラクターの扱い方についてだけど、割りと満遍なく色々なキャラのCPが試行出来るように描写を組んでてそこだけは唯一評価できる。
劇中でのファンはすごく雑に扱うのに、視聴者のオタクにはしっかり媚を売るんですね(笑) とか思ったりはしないでもない。
ちなみに「1つの劇中でほぼ全てのCPを試行する」という試みは「ゆるゆり なちゅやちゅみ!」という映画がとんでもないクオリティでやってのけてます。


ことりとかいうクソ女の母親の描き方も酷かった。ミューズ存続を問うシーンで、「みんながこう思ってる」「みんながこう望んでる」という話をするばかりで自分の意見が言えてない。しっかりするべきはずの大人を無能に描いておいて主人公たち子供を苦悩させるシナリオには正直不快感しか覚えない。



あとはーーー……星空凛さんがすごく可愛かったですね!!!!
僕は高坂穂乃果さん派でまあ凛さんは今まで割りとどうでもよかったんだけど、何故か異様に星空凛さんの所作にだけ異様に力が入っていた。何なんだこれは。
序盤から終盤までとにかく異様に星空凛さんの作画は動くし可愛い。
そして何より声優の演技がズバ抜けてましたね。

正直ラブライブの声優って全員下手だし音響担当もまあ能なしなんやろうなみたいな演技しかしないんですけど、 星空凛さん役こと飯田里穂さんの演技だけがズバ抜けてキレッキレで上手くて、他の声優陣の下手さも相まってとても魅力的だった。

ちょっとここでラブライブの声優の演技について語ろう。
ラブライブの演技は基本的に典型的なアニメ調で、チヤホヤされて調子に乗った女共がクソ高い声で騒いでそれで更にチヤホヤされるという、アレに近いアレなんですけど、まあ僕はそういうの嫌いじゃないんですよ。
ただラブライブのそれはあまりにも品がなさすぎる。うるさいし不快。
けど声優のラインナップ見ると確かにアレな人も居るけど三森すずこさんとかてーきゅうとかでは素晴らしい演技を披露しているし、声優に問題があるわけじゃないんですよね。単純に音響担当の奴の演技指示が無能なんだと思う。




















萌えアニメといえばさっき言った感じのアニメ調の演技が主流だったんですが、最近それは変わりつつあると思う。中でも代表的なのが「響け!ユーフォニアム」で、ジョイナスと呼ばれるキャラクターが中日ドラゴンズの指揮をとりながら陰茎を露出するアニメなのだが、主人公の久美子の演技がとんでもなくヤバいんですよ。
こればっかりは言っても伝わりにくいので実際に見て確認して欲しい。普段はアニメ調の演技なんだけど、シリアスなシーンや気を許してる、どうでもいいと思ってる相手の前では素に近い声になる。
この落差が実に甘美だ。本当に素晴らしいと思う。
こういうのは他のアニメでも顕著で(例をあげたらキリがない)、とかく今の時代のアニメでキャンキャン騒いでるだけの女キャラってのは居なくて、大抵「表」と「裏」の二面性を持った演技を使ってる。
ラブライブがダメだと思うのは悩んでるシーンとかシリアスなシーンでも声優が演技のトーンを変えないことですね。音楽を題材にしてるクセに声という音を演出に使って行かないでどうするんですかね。
ちなみに星空凛さん役の飯田里穂さんだけがこの2面演技をやってました。とんでもねぇなと思いましたね。


こんな感じに劇場版ラブライブはとても酷い映画なので皆さん見に行ってケチョンケチョンに叩こう! ラブライブを馬鹿にしよう! ほのにこ同人誌を買おう! 違法ダウンロードをやめよう! C3部を見よう!


















 以上ラブライブアンチよりお送りしました

2014/11/03

映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナを見てきた

大津までサイクリングに行ったついでに草津イオンモールで映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナを見てきました。
結論から述べると大変素晴らしい映画でありました。この映画が我々に指し示してみせた信念は人々の心に暗雲垂れ込める時代が訪れたとしてもその輝きを失わない不変の光でありましょう。

まあそんなくだらない御託はどうでもいい。この映画に接近を試みる際に焦点となるのはただ一点。愛乃めぐみさんは何故たった一度ダンスを踊っただけの、仮初めの友達を演じ自分と仲間たちを騙して窮地に陥れたつむぎさんをあそこまで懸命に助けようとしたのか。
それは端的に言って、 愛乃めぐみさんが強く、優しく、そして何よりも「たった一度の楽しい」を大事にして、それを伝えられる人だからです。
愛乃めぐみさんがつむぎさんと踊ったのは一度しかありません。しかし愛乃めぐみさんはその瞬間を楽しいと感じた。そして友達になりたいと心から思った。その想いを伝えようと試みた。そして彼女は人のことを思いやれる子だからつむぎが本心から自分たちを騙したわけではないと理解できた。この無鉄砲なまでに想いを伝えようとする純粋さと、他者の想いを汲み取ろうとする思いやりが愛乃めぐみさんの何よりの美点でありましょう。他者を思いやる心とは即ち愛です。しかし愛は時折無力になります。今作の映画は愛が行き詰まって無力になってしまった時、人は何をすることが出来るのか、というテーマだと考えます。





彼女は守りたかったのだ。自分の世界を。愛おしい日々を。それが既に失われてしまったものだったとしてもまだ幼い少女が懸命に愛した日々を切り捨てることなど出来るはずがないだろうが。
俺は憤怒した。運命とは幸せな日々をひたむきに歩むつむぎさんのような美しい人にこうも残酷な現実を突きつけるものなのかと。 
俺は許すことが出来なかった。彼女からバレエを奪った運命を、彼女に対して何もしてやれない己の無力さを。
踊りを失った彼女は決壊を起こしたダムのような脆い存在だった。彼女の中から大切な物がこぼれて流れていってしまう。友も、家族の愛も、そして己の希望すらも全て失ってしまったのだ。
そうして全てを失ったつむぎは自らの殻に篭ってしまう。即ち人形の国、ドール王国だ。
彼女はその国の中でなら幸せでいられる。彼女は仮初めとはいえ、一度はなくした幸福な日々を取り戻すことが出来たのだ。
無論虚構はただの虚構。夢はあくまで夢であり、それは現実ではない。しかし、しかしだ。一度は全てを失った彼女が夢の国の中だけとはいえ、再び笑顔を取り戻すことが出来た。俺にはこの事実を否定することなど出来ない。つむぎの笑顔を否定することなどできるはずがない。絶望の淵に追い込まれ、全てを失ったつむぎがようやく手に入れた幸せな場所なのだ。
だからこそ俺はドール王国を保とうとするつむぎの姿勢を強く支持した。つむぎの笑顔を守るためならどんなことでもすると誓ったのだ。そう、上映中俺はドール王国の人形たちと志を共にしていた。なんと俺はドール王国の住人だったのだ。
しかしプリキュアたち、 愛乃めぐみさんはつむぎの気持ちなんてお構いなしにつむぎを救済に導こうとする。違う、違うのだ。聞いてくれキュアラブリー、つむぎはこの世界から出てしまえば、踊れないつむぎになってしまうんだ。現実を直視させられてしまう。そんなのはナシだ。もうつむぎはイヤというほど現実に苦しめられたのだ。もういいじゃないか、許してやってくれ、開放してやってくれ。キュアラブリーに語りかける俺の声が届くことはなかった。それはそうだ、俺は映画館の席で苦渋の声を呻き立てているだけだったのだから。
俺はドール王国の人形でもつむぎさんの友達でも、プリキュアの協力者でもあの世界の人間でもなかったのだ。俺は、プリキュアの映画を見にきただけのキモオタで、プリキュアに、つむぎに何かしてやれることなどありはしなかった。ただ彼女の笑顔を願うことしか出来ない無力さを呪うしか出来なかったのだ。
愛乃めぐみさんは懸命に説得を続ける。ああ、キュアラブリー、そうか、あなたが代わりに代弁してくれるというのか。あなたはいつだってその持ち前の勇敢さと、賞賛されるべき無謀さで、人の、自分ですら気付かない感情の極地を覗き知らせてくれる。
しかし無力なのだキュアラブリーよ。この世界を出たところでつぐみの足が治る術はない。人間は手の届かぬ事にはひたすら無力である他ないのだ。
ああ、愛乃めぐみさんも同じだ。愛の戦士プリキュアといえど、不可能なことは不可能なのだ。あなたも俺と同じ壁に遮られてしまった。俺は落胆を覚える。彼女を救うことは誰にもできない。だったら彼女はずっとこの夢の国に居続けて、バレエを舞う。それしかないじゃないか。それが一番幸せな選択じゃないのか。
しかしキュアラブリーは諦めてはくれなかった。ああ、気付かされてしまった。違う、愛乃めぐみさんは俺とは違う。俺のような臆病者とは根本的に違うのだと。愛乃めぐみさんは真剣につむぎのことを想っていて、その思考の末にたとえつむぎが傷つくことになったとしてもつむぎがこの仮初めの世界の繭を破って現実に踏み出し、本当の世界で心から笑い合える日々が訪れるを望んでいるんだ。そして何よりも俺のようなキモオタと違う点、それはプリキュアであるとか、住んでいる次元が違うとか、そんな些細な違いではない。愛乃めぐみさんはつむぎと友達になりたいと願って、そのとおりに行動した。彼女は勇者だったのだ。 
俺は涙した、俺はつむぎのことなんて何も考えられちゃいなかった。俺はただ、つむぎの傷つく顔が見たくなかったから、幸せでいて欲しかったからつむぎが夢の世界に居るのが最善だと考えた。しかし、それは翻せばあまりにも自己中心的な願いだったと気付かされた。
悪の怪人が現れる。もはやコイツの名前など覚えていない。つむぎの足を動けなくし、つむぎから踊りを奪ったのは全てコイツの差金だった。コイツを倒せば全てが解決するのだと。
当然俺は怒りに燃えた、こんな奴のせいでつむぎは苦しみ、絶望に飲み込まれ、夢の世界にすがるしか生きる術がなくなった。許せるはずがない。
しかし俺は無力だった。俺はプリキュアの仲間でも、人形の国の王子でもなく、単に映画館の席に座るオタクだったからだ。悪の怪人は強かった。人形の国の王子も愛の戦士プリキュアも倒されてしまう。クソッタレめ、こんな結末を黙って見過ごせるか。俺はプリキュアが大好きなんだ。プリキュアたちが紡ぐ物語はこんなしみったれた絶望の色ではなく、未来への眩しい希望が溢れる愛の色だったはずだ。何かに俺に出来ることはないのか。俺が己の無力さに苛まれ頭を抱える中、首にぶら下げたミラクルドレスライトが真白く光り始めた。俺の右手がスイッチを押していたのだ。
映画館で配布されるミラクルドレスライトにはヒモがないらしいが、物販でミラクルドレスライトを購入すると(税込み650円)通常のミラクルドレスライトとは違い首にぶら下げるためのヒモと愛の宝石を模したストーンが取り付けられているのだ。そうだ、俺は上映が始まる前にネックレス代わりにミラクルドレスライトを装備したのだった。
ミラクルドレスライトはヒモにストーンが取り付けられているため振りまわすのには適していなかったが、そんなことは知ったことではなかった。こんな俺でもプリキュアの為に何かをすることが出来る、応援の光を届けることが出来る。そう知った時に高まりの鼓動を抑えられるほど俺は感情を捨ててはいない。気付けば腕全体を使ってミラクルドレスライトの光を振り回していた。これは俺の祈りであった。映画館に同席した他の人間はミラクルドレスライトを買い損ねたらしくライト持っていなかったから、その人たちの分の想いも伝わるように懸命に振った。振り回すたびにヒモに吊り下がったストーンが顔にベシベシ当たったが、そんな痛みはプリキュアを応援することができる喜びに比べれば些事でしかない。
そんな俺たちの想いが届いたのかプリキュアは覚醒を果たしスーパーハピネスラブリーが生まれた。プリキュアはその力で悪の怪人を討ち果たした。当然だ、大切な人を想う愛の力が身勝手な悪の感情に敵うはずなどありはしないのだ。つむぎの足は無事に治った。ようやく希望溢れる未来に羽ばたくための翼を取り戻せたのだ。
つむぎはリハビリを経たのち、愛乃めぐみさん達の前でバレエを披露する。この瞬間、つむぎさんと愛乃めぐみさんは本当の意味で、幸せに笑い合える友達になれたのだ……。これ以上はないハッピーエンドだ。与えられたものじゃない、彼女たちが自ら望み、勝ち取った幸せなのだ。みんなが笑い合っている、大きな愛が生まれている。彼女たちがこれから過ごす希望で満ちている未来は、今よりもっと大きな愛で世界が満たされていることだろう。俺は満足して映画館を出た。ありがとう、ハピネスチャージプリキュア。そうひとりごちり琵琶湖を眺めながら帰り涙を流したオタクの心には紛れも無い愛が宿っていた。ハピネスチャージされたのだ。


愛は美しい感情でありますが、時折無力になります。そんなとき人は何をすることが出来るのか。
愛乃めぐみさんは言いました。「つむぎちゃんの笑顔を取り戻してみせる。だって、友達だから」
おそらくあの段階ではつむぎは愛乃めぐみさんのことを友達だとすら認識していなかったでしょう。倒すべき敵、自分の世界を壊しにくる悪だと考えていたはずです。それでも、たとえ裏切られたとしても愛乃めぐみさんはつむぎに想いを伝えます「友達だから助ける。友達になりたい」と。

映画ハピネスチャージプリキュアは想いを人に伝えることの大切さを示す、愛に溢れた作品でした。