2014/07/26

ひとりのクオリア、クリア感想


クロスクオリアの感想のようで全然感想じゃないレビューです。
一応ネタバレ注意です。




買ってトールケースを開けるじゃないですか。
いや、いいですね。トールケースというものは。豪華絢爛で所有欲をガッツリ満たしてくれるフルプライスの箱もいいが、やはり自己主張のおとなしい慎み深い清らかなトールのケースというものは見ているだけで心が洗われるようです。
それでね、ケースを開けたらディスクがまた綺麗なんですねこれが。ひとりのクオリアとふたりのクオリアのDVD、それに対応する各ドラマCDが1つずつ入った計4個のディスクがキラキラと僕を迎えてくれるんですよ。
ディスクは内包した世界の美しさを示すように輝いている。
ディスクが綺麗ですとね、「僕はこれから綺麗なゲームをプレイするんだーッ」という感情になりますから、とても清らかな心でエロゲーを受け入れることが出来る様になるわけでして、この瞬間こそが決して激情ではない、安らかな高揚の極致ですね。

で、本編の話になりますが百合最高ーッ
プレイしてる間100万回くらい「百合最高!!!」って叫んだ。アパートの隣人がオカマなのでいつ怒りにくるかビビリながら、しかし全力で絶叫した。百合最高!!!!!
100回くらい絶叫してその倍の数は赤面するくらいには最高の百合だった。
とりあえず百合最高!!!という面に関してこれ以上言葉を費やす気はないです。

で、プレイし終わった後まあ僕は色々なことを考えましたよ。
全体的にイベントの規模が小さいとか、消化不良だとかこんなんだったら何度も延期するなとかシステム周りもっと力入れろやとかパッチでセーブデータ消えるとか聞いてねーぞとか演出がしょぼすぎるとか特に意図がないなら立ち絵ぐらいちゃんと表示しろとかまあミドルプライスならこんなもんだよねとか授業頑張ってきますとか言ってるけどあれだけ学校休んでたらついていけなくなるだろとか…

ネガティブなことばっかですが別にオチにそこまで拒絶反応を示したわけではなく、クオリアという作品にはEDがないんですよ。まだ終わってないよ。おわりのクオリアで終わりだよ。ってことなんだろうけど。
普通のエロゲだとED曲が流れている間に「ああ、この作品はあそこが良かったなぁ」などと楽しかった思い出を反復して自分の中で作品の立ち位置だとか感想を固めていくんですが、クオリア急に終わりますからね。
普通に強く困惑したし、良かったところ探しに没頭することすら出来なかった。正直この構成はひどいと思う。

そうやってプレイ後はそんな感じのそれっぽい評価を考えていたんですが、言うまでもなくそんな思考に価値などないし、僕が信じるべきなのは、ゴミみたいな脳みそで付けた作品の評価なんかじゃなく、ただプレイ中に彼女たちの日常を見て幸福の繭に包まれていたあの時間だけなのです。僕はあの時間だけを信じればいい。
僕はあの日々を本当に心から楽しんでいたんですよ。あの瞬間は紛れも無く幸福の極致でありました。
そしてそれほどに楽しかった日々が作品の精度を測るなんていう無感情な作業に貶められている事実に僕は耐えうる事ができません。
僕は正しい批評なんかがしたいわけじゃない! もっと、もっとあの世界を楽しみたいんだ……。その情景を汚す要因は何があっても排除しなければなりません。よってこの作品に対する批判の一切を受け取らないという態度を取ろうと思います。この作品を正当に評価することで失われてしまう黄金があるのならば、僕は批評を忌避せねばなりません。黙ってふたりのクオリアをプレイした後、姿勢を正しておわりのクオリアを待ち続ける。僕が取りうる行動はそれだけです。
信者気質と言われればそれまででありましょう、しかし僕は別に10mileの信者というわけじゃない。というかあの会社は確実に潰れる。潰れろ。
ただ僕は彼女たちの日々……。牛丼を食べに行ったり2人でゲームをして遊んだりした、あの日々の信者なのです。

もうこの作品に対して批評なんてものはいらないでしょう。少なくともおわりのクオリアが発売されるまでは。
僕は気に入った作品に対しては何がなんでも精査し抜いて肯定の要素を見つけまくって理論武装するような人間なのですが、流石にクオリアに関しては色々と足りない点が多すぎます。よって、目を瞑ります。
我々は彼女らの柔らかな日々に祈りを捧げているだけでいい。ただ愛おしい女の子たちの日常を見て「はにゃーん」となっていればいい。
祈りの供物は牛丼がいいでしょう。
彼女たちのハニカミに、我々はただ牛丼を捧げるだけでいい。
今はまだそれだけでいい。

2014/07/08

ご注文はうさぎですか? 感想。

というわけでね、ご注文はうさぎですか? 最終話のほう、号泣させていただきましたけれども。
いやぁ、美しい愛情の物語ですね……。
愛と言っても性愛や家族愛という類の愛ではない。他者と他者の関係の中に生まれる確かに尊い感情、そういった愛の物語なのである。

ごちうさを論考する際に重要になるのはキャラクターの関係間の非閉塞性であり非親密性である。彼女たちは何か特別な繋がりを持っているわけはなく、ただあの都市の喫茶店に集うことで知り合っただけの関係であるということです。この位置は客観的に見るならダスマンとも言える状態でありましょう。

しかしココアさんとチノさんは共に過ごす時を経て、やがて本当の姉妹であるかのような関係性に到達するのです。その地平に至るまでの過程の描写はシームレスであり、また描かれる他者性の中にありながら他者性を捨象した空間において描かれる他社間における愛情の物語に我々は感銘を受ける……。それはまるで飛 べない鳥が空を泳ぐ白鳥を見つめる様の様に……。要するにオタクの憧憬であるということ。

きんいろモザイクやゆゆ式は関係性の中でやりとりされる本質的かつ性愛の関わる余地のない密接な愛情を描いていたけどごちうさは関わりを持たない者同士が愛情を補足するに至るまでの物語でしょう。

あくまで1話が始まった時点ではココアさんは誰とも知り合いじゃなかった。この事実が重要です。
一時の癒やしを与えることをレーゾン・デートルとする日常系アニメの1話において誰とも関わりを持っていない状態を描写することの恐ろしさは語るまでもないでしょう。しかしご注文はうさぎですか? はそれをやってのけた。
それは無知ゆえの行為なのかもしれないし、意図的なものかもしれない。しかし確実に日常系を摂取しようと企む層を払ってのける意志なのです。
私はこれを勇気の行為と賞賛しましょう。GJ部でさえこの領域には踏み込めなかった。
最初はたどたどしかった関係が終盤になるにつれて円滑に、いわゆる身内のノリが形成されてきてその空間を存分に享受できるようになるというのは日常系にお ける醍醐味のようなもので、ほぼ全ての日常系はこの効果を狙って演出を行っています(漫画家の今井哲也さんはこの効果のことをきららコードのデコードと名付けましたね)
勿論それはごちうさにおいても例外ではなく、しかし確実に変容している点が、繰り返しになりますが主人公のココアさんは初期において誰とも知り合いではなかったということです。




他の日常系が関係性を積み重ねるというスタイルを取っている中、ごちうさにおいては関係性を初期から構築していくという表現方法を採用しています。
この効果の最大のデメリットとして1クールだとそもそも本題の関係性を積み上げられないという点です。
最終話においてもチノさんがココアさんのことを寝ている間に「お姉ちゃん」と呼んだだけで、それ自体はある種大したことではないです。
ここで着眼すべきは、1話が始まった頃は知り合いですらなかった2人の関係性がここまで接近したという事実であり、私はその事実に気付いた頃、この物語を尊き物語として扱おうという決心をしました。

ご注文はうさぎですか? を批判する際に持ちだされうるのがごちうさにおける都市の非実在性や関係性の非密着性です。これについては弁解のしようがなく、紛うごとなくごちうさの構造上の欠陥と言えるでしょう。
しかしそれさえ乗り切ることが出来たならごちうさはあなたにとってかけがえのない友愛の物語としてクリティカルな憧憬を与えるはずだ。

これでいいですか。はい。










オマケ

4話の作画は14年アニメ屈指の神作画












































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