2014/01/09

のんのんびより最終回見ました。結論から言えば自由の対比という構造を使った日常の肯定だったのかな。とか思ったのでTwitterの引用交えつつ小さくまとめます。

のんのんびよりではかなりの頻度で「自由の拘束」が描かれる。3話の先生の田んぼ作業を手伝うエピソード。5話で海水浴に行くエピソード。9話で文化祭に友達が招かれるエピソード。10話で初日の出を見に行くエピソード。12話で私有地の清掃を住民みんなで行うエピソード等です。
のんのんびよりにおいてはどれもおだやかなテイストで和やかに描かれるが、これを現実に置き換えた場合田舎付き合いによる自由の拘束と受け取れる。 それは、田舎において付き合いを放棄するということは村八分にされるということに他ならないからだ。この辺りはのんのんびよりが描くことを放棄した田舎のネガティブな側面です。しかしそれを暗に提示している。これはのんのんびよりスタッフの誠実さです。我々はそれを足がかりにのんのんびよりを紐解くことができる。

以下Twitterからの最終回感想です。


私有地の清掃。これは前述の通り田舎の付き合いですね。更に私有地を持つ者が少ない都会との対比も行われている。そしてれんげは翼を授かる。これは疑う余地もなく自由と開放を意味しています。つまり土地(管理するべき物)を持たない現代人に自由がなく、土地(皆で守らないといけない物)を持つ田舎の人間は自由を得る。資本によって便利な生活を得た現代人は紛れも無く自由を手に入れたのでありますが、故に失った自由もあると。田舎の生活は人間関係が狭く自由を失いやすい環境ですが、故に手に入る自由もあると、のんのんびよりは語っているわけです。

その自由で人間がなにを行うか。これはOPでも語られているようにゆるやかに続いてく日々に答えなどなく、季節は歌うように過ぎていくものなのです。自由 の中でなにを行うかすら自由なのだと。彼女たちはその自由の中で「皆と戯れる」という田舎での日常を肯定する行為を選んだわけです。それは賞賛されるべきである。故に我は彼女たちを賞賛する。

最後に彼女たちがカメラの前に会釈をする。これは言うまでもなくのんのんびよりという存在が劇であるという主張ですね。つまりのんのんびよりは劇であると彼女たちは語っているのです。その劇がこたび最終回という形で締めくくられたわけです。

しかしCパートで再び映像が始まる。彼女たちは現れず数カットだけの田舎描写ですが、この描写によって我々はのんのんびよりの世界は続いていくことを知る。のんのんびよりという劇は終わりを迎えたが、のんのんびよりという世界は連綿と続いていくのです

よいですか。のんのんびよりという劇は終わりましたが、のんのんびよりという世界は連綿と続いていくのです。我々はそれを永遠に賛美することが出来る。

のんのんびよりという劇が終わっても、我々はのんのんびよりを永遠に賛美することが出来る。 それはかけがえのない事実です。