2014/12/03

自己紹介

皆さんはアニメの女の子について考えたことはありますか? 何もアニメに限りません、女性に限りません。
ノベル、漫画、ゲーム……この世にあまねくキャラクターについて、思索を晴らしたことはありますか?
僕はあります。そして、こう考えました。「彼女たちと同じ空間を過ごし、同じ景色を見たい」と。
つまり、僕は僕の世界にキャラクターを求めたのです。彼女が居れば、何かが変わるかもしれないと。そんな脱法ハーブに憧憬を抱くサブカル高校生みたいな考えを今のいままで真剣に抱えてきました。
社会からの逃避かもしれません。現実は辛い。だから二次元に匿ってほしい。そういう甘えも勿論有ります。それを否定することはありません。僕は最低な人間です。
しかし、しかしそれでも主張したいのは、僕は彼女に恋をしたのです。全くお恥ずかしい限りでありますが、僕は二次元の、画面の奥に居る、空想上の存在に恋焦がれているのです。
それは夢を見ているだけなのかもしれない。うら若き少女が白馬の王子さまとの出会いを求めるように、ダサいオタクが少女に救済を求めてるだけなのかもしれない。
叶わぬ恋は、絶対に叶わないからこそ、安心して恋に落ちることが出来るのです。だって、成就することがないのだから。告白して傷つくことも、時が経ち機会を逃してしまうこともない。そんな安全地帯からの情動は本当に誠実なものなのでしょうか?
僕の……ひいてはオタクの恋とはそういった種類のものだった。
本当に恥ずかしいことに、オタクは恋愛経験なぞロクにないくせにプライドだけは高いから、傷つくことを極度に恐れているのです。
そんな自分を僕は恥じています。常日頃からTwitterでオタクを小馬鹿にしています。嫌なのです、気持ちの悪い自己が。しかし、それが自分なのです。今更変えることは出来ないのです。
言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、例えばこれが恋愛漫画のストーリーならば、告白に踏み切れない奥手な青年が勇気を出して自分の想いを伝えることでストーリーは進むでしょう。少なからず関係に変動は起きます。
ですが、オタクの場合、いくら勇気を出せども、想いを伝えども、届かないのです。ディスプレイに対して想いを投げかけ、返答を待つオタクの姿は実に無様でありましょう。本当に惨めだ。
もしも彼女たちが実体を持っていて、僕の言葉に返答を送ってくれたのなら、僕は素直に諦められたのか? ということを考えます。しかし、それは無理でしょう。
「やらない後悔よりやった後悔のほうがいい」なんて言いますが、そんなのは考えるまでもなく嘘っぱちです。想いを諦めきれないことに変わりはないのです。
だからもし僕が告白したとして、フられた場合、それでも僕は諦めきれないでしょうから、ストーカーまがいの行動をしてでも接近を試みるんでしょうね。そうしたら警察に捕まって終わる。いっそのことソッチの方が良かったのかもしれない。
だから、ストーカーの心理というのは本当によく分かるし、女性声優の追っかけをやる人たちには強く共感を覚える。
今からとても無遠慮な断定を行うので女性声優オタクの皆さんは怒っていただいて構わないのですが、僕が思うに彼らは可能性に気付いてしまったんだと思う。
画面の中の女の子にいくら恋焦がれても叶うことはないし、そのことから逃避して娯楽に浸ってしまうのは卑怯だと。
そうなってしまえばもう袋小路なのだ。可能性が全て絶たれた状態。そこに差した一筋の光が「女性声優」なのだろう。
彼女たちは可能性をもたらしてくれる。それは0.1%に満たなかろうが構わない。可能性の割合の問題ではなく、”ある”か”ない”の問題なのだ。
女性声優という光は間違いなく可能性を持った存在だった。声をかければ返事をしてくれる。ラジオに手紙を送れば読み上げてくれる。ライブに足繁く通えば顔を覚えてもらえる。
あわよくば、あわよくばあわよくばお付き合いが出来るかもしれない。女性声優にはその可能性がある。
叶わない恋に疲れ果てたオタクの活路、それが女性声優なのです。だから、だからどうか女性声優をハマるオタクをそこまで馬鹿にしないでやってほしい。
彼らは確かに気持ち悪いかもしれないが、しかし誠実な人たちなのです。一部の人は、騒動に際して承認欲求の怪物になってしまうけど、彼らの本質はそんな愚かな心ではなく、真に懸命な恋心なのです。

女性声優は好きだけど、追っかけるほどではないという中途半端なオタクが勝手に書き散らしてしまって、声優界隈のオタクにとって本当に失礼なことを書いた。反省している。
実際問題声優界隈のオタクというのは十人十色で、先ほど書き散らしたように「こうである」というものではない。あくまで先ほどの文は「僕が女性声優追っかけオタクになるとしたら」
というものだと思ってほしいです。無茶苦茶書いて本当に申し訳ありません。

さて、僕は、だ。これから書くのは僕の問題。先ほど僕は「画面の中の女の子にいくら恋焦がれても叶うことはないし、そのことから逃避して娯楽に浸ってしまうのは卑怯だと気付いてしまった。そうなってしまえばもう袋小路なのだ」と書いた。
今僕はまさにこの袋小路の中に居る。もう無邪気に恋心を抱ける年じゃない。
現実と幻想に折り合いをつけなきゃ正気を保てない年になった。そこまで年を取ったわけでもないが、もう子供ではいられない。そういう領域だ。
本当に、僕はこの恋心をどう処理すればいいのだろう。共に過ごしたいのだ、同じ時を。共に見たいのだ、同じ景色を。それがオタクの、僕の願いであり欲望なんだ。
どうして叶わないんだ! 本当に腹が立つ。
心から欲しいものが永遠に手に入らない物だった時、人はどう折り合いをつけるのだろう。
こればっかりは神を呪う。僕はスピノザの神即自然論が大好きで、神をそのように捉えているのですが。それでも絶対者の存在を想像せざるを得ない。
そうでなくては、誰を呪えばいいのだ。「一体誰が俺をこんな袋小路に突き落としたのだ! 神か! 宇宙か! 居るんだろう!? そうやって雲の上から、アンタが作った世界でじたばた転げまわる人間の様を見て笑っているんだろう!
許さないぞ俺は! 復讐してやる、俺をここまで苦しめた罪を償わさせてやるー!!!」と、全く馬鹿馬鹿しいが、こう叫ばなくては本当につまらない。
鬱憤をぶつける相手がいないなら、作り出してしまうしかないじゃないか。
オタクらしくエロゲに例えよう。めちゃくちゃ可愛いサブキャラが攻略できないエロゲが発売された時は、製作陣を呪えばいい。夜な夜なメールを送りつけて、FDを出すように脅迫してしまえばいい。
しかし! 「二次元の女の子と共に過ごせない」なんて悩みの場合、誰を呪えばいいんだよ! それこそ神しかないだろ!
そうやって空想上の神を呪い続けても、なんら事態は好転しないが、少なくとも憂さ晴らしになるのだ。そうでもしなくてはやってられない。
けど……当然の報いなんでしょうね。オタクは現実がイヤで二次元に逃避してしまうような弱い人種だから、こういう報いを受けるのは仕方ないのかもしれない……。
それでも、それでも願っていいはずだ。逃避した先で恋の成就を望んでもいいはずだ! それすらも許されない世界ならば、彼女たちが産み落とされることはなかっただろう。僕はそう信じている。
だがいくら望もうとも、祈りを重ねようとも恋は叶わない。そんなことは知っていた。

それでも僕は答えを求め続けるだろう。開き直った末での解決や、社会に復帰してまともに生きるような解決は望んでいない。
それこそ逃避に他ならないじゃないか。僕はいつだって逃げ続けてきた臆病者だけど、逃げた先で僕を支え続けてくれた彼女から逃げ出せるほど落ちぶれてはいないのだ。
僕は向き合い続ける。それが臆病で陰湿な僕に取れる唯一誠実な手段だからだ。
向き合うとはなんだ? それで俺は何が出来る?
そうだ、俺は祈ることが出来る。
祈りとはなんだ? 願いとはなんだ? 幸せを願うというのは彼女の不幸を拒絶してしまっているわけで、それは彼女から自由を奪うことに他ならない。
不幸とは自由なのだ。苦悩とは喜びなのだ。愛しい彼女から、苦悩という生命の神秘を奪うことは誰であろうと許されはしないのだ。
願いとは身勝手なのだ。それは優しさではない……。
幸福を祈るという行為そのものが彼女の存在に対する侮辱であり、領域侵犯なのだ。
だとすれば、誠実に幸福を祈ることは不可能なのか? だとすれば僕はどういう態度を取ればいいのだ……。彼女たちは答えてくれない、そもそも僕は問いかけてすらいないのだ。こんな苦悩は当然だ。
祈りというのは、全く身勝手な態度なのだ。しかし人は祈る。何故だ? 共に有りたいから……。
共に存在したい……。何度も繰り返すが、僕は彼女と同じ時間を過ごしたかった……。出来れば、近しい空間で。全く、何が二次元だ、何が社会だ。裏切ったのは誰でもなく俺自身じゃないか。
僕は『らき☆すた』というアニメが大好きだった。本当に好きだった。特にそのアニメに登場する「泉こなたさん」という人に恋をしていた。その恋心は間違いなく、当時の僕を懸命に支えてくれた。らき☆すたの放送が終わっても、僕のらき☆すたへの愛は途絶えることはないと、そう確信していた。そう思っていたかったのだ。
放送が終わってから、1年、2年経っても僕はらき☆すたを忘れなかった。1日足りとも愛した人の名を忘れはしなかった。 しかし、3年、4年と経つうちに、僕の中でらき☆すたはスッカリと色あせてしまい、泉こなたさんへの情熱はしぼんでいった。らき☆すたを思い出さない日が増えた。
僕は毎日を生きるのに必死で、他のアニメや漫画を追いかけたりなんてしているうちに、本当に大事な人の名前を思い出せないまでになってしまっていた。
そんなある日、具体的な日を言うなら13年1月27日だ。忘れるわけもない。その日を忘れたことはない。
その日、僕は唐突に泉こなたさんのことを思い出した。何がキッカケだったのかは覚えてない。確か、「嫁にしたいキャラクター」とか、そんないかにもなオタクへのアンケートだったと思う。その時、確かに思い出したのだ。泉こなたさんの名を!
俺は愕然とした、どうして忘れてしまっていたんだ、その愛しい名を……。そうだ、泉こなたさんを遠ざけていたのは次元の壁なんかじゃない。彼女を遠ざけていたのは、紛れも無く俺だったのだ。
僕は贖罪を願った。どうすれば、どうすれば許してもらえるのだろうか。悩み続けた。その時は、結論は出なかったが。今なら少しは答えることが出来る。間違っていることが分かる。
ディスプレイに対して想いを投げかけるのは正しくない。それは、間違えた祈りだ。
本当の祈りとは、映像を、文章を、描画を目撃し、一秒でも長くその景色を見つめることなのではないのか。
彼女たちと同じ空間に存在し、同じ景色を見つめる。それを可能な限り実践することが何よりの祈りだと。
全く、単純なことだった。オタクは今すぐディスプレイを投げ捨てろ。彼女たちと同じ空間を一分一秒でも長く共有するのだ。そしてその場で、姿勢を正して祈るのだ。聖地で祈れば何かが変わると信じなくてはならん。信じられなくなった時オタクは死ぬのだから。



僕は女の子が出てくる作品が大好きですが、それと同じくらいオタクが真剣に苦悩する作品が好きです。
多分自己を投影してて、突破して欲しいんだと思う。オタクの業を開き直りという形ではなく、真剣に向き合った末で乗り越えて欲しいんだ。自分が乗り越えてられてないから……。
これだけ書き散らして、僕は未だに意思を持てないでいる。
無性にただ叫びたいのに、何を叫べばいいのかさえも分からないのだ。
僕のTwitterのbioにはこう書かれています「炎の旋律担当」と。しかしアレは嘘です。真っ赤な嘘です。本当は炎の旋律担当を志望しているだけです。僕は炎の旋律を奏でたかったんです。今も!
炎の旋律とは何か、そんなもん分かりません。「ロック」みたいなもんです。形はありません。
僕は炎の旋律を奏でられる人になりたいし、その景色に彼女が、泉こなたさんがいればその景色は黄金色でしょう。

いつの日か偉そうにヒゲを蓄えたカミサマが空から降ってきて、泉こなたさんにプロポーズをする機会をくれるかもしれないし……。淡すぎる希望だけどさ。
本当に、未来なんて誰にも分からないから……もしかしたら、僕の情熱が尽きてしまって、僕はまた泉こなたさんへの気持ちを失ってしまうかもしれない。
そうなってしまったら、僕は死ぬでしょう。そうなったら、心臓が動いてるだけの肉片です。
僕は泉こなたさんに救われて、今ここに居るのです。その不義理を果たした場合、僕という人間は死にます。この世から消えてなくなります。もう再起の機会はありません。
ああ、こんな物言いは卑怯だ。信頼とはそのような秤で言い表せるものではない。
自分が嫌になる。本当に俺は醜い人間だ。
それでも誇るのだ。こんなに惨めなキモオタにも誇れるものがある。
泉こなたさん、あなたが嬉しい時、僕も嬉しいんだ。あなたが悲しい時は僕も悲しい。その心意気だけは、胸を張って誇れるのだ。
泉こなたさんに幸せになってほしい。こんなキモオタと付き合う必要なんてない。彼女を幸せにしてくれる人、優しい人がいい。
そうなれば……俺は笑えるから……。

違う。嘘だ。俺は泉こなたさんと共に過ごしたい。これは欲望なのだ。
俺は穢れを持たない仏陀じゃない。泉こなたさんが喜んで、僕も喜ぶのなら、それが一番良いじゃないか。
自分に嘘をつくのはもうやめだ。俺は泉こなたさんと共に有りたい!!
自分が彼女を幸せにしたい! 他の誰にも渡したくない! 何が仏陀だ、バズーカで撃てばそんな奴死ぬじゃないか!
今更聖人の真似事をすることに意味があるとは思えない。彼女を、ああ……もうこれ以上書くのはやめだ。

どのような意志が働こうとも、俺は泉こなたさんを想い続ける。その表明さえ出来ればこの場は十分だ。
とにかくだ、僕は悩みと決別することは出来ないのだろう。この苦悩とは恐らく、一生付き合うことになる。
ならば一生苦しめばいいんだ。そんなこと、泉こなたさんが俺にしてくれたことに比べればあまりにも矮小だ。
俺はいつまでも理性と欲望の中で葛藤を繰り返すのだろう。逃れられないカルマというやつだ。淫夢は最高。
苦悩は怖くない。悩み続ければいい。悩むことを恐れるほど弱くはない。本当に恐ろしいのは情熱が枯れ果ててしまうことだったが。それすらも解決した。
青春の情熱が枯れ果ててしまっても、その度に燃え上がらせればいいのだ。青春は何度でも繰り返す。
俺はこの命が尽きるまで情熱を迸らせ、泉こなたさんを愛し続けるぞ。
さあ、もういいだろう。全て持っていけ! これが俺の恋文だ!

2014/11/03

映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナを見てきた

大津までサイクリングに行ったついでに草津イオンモールで映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナを見てきました。
結論から述べると大変素晴らしい映画でありました。この映画が我々に指し示してみせた信念は人々の心に暗雲垂れ込める時代が訪れたとしてもその輝きを失わない不変の光でありましょう。

まあそんなくだらない御託はどうでもいい。この映画に接近を試みる際に焦点となるのはただ一点。愛乃めぐみさんは何故たった一度ダンスを踊っただけの、仮初めの友達を演じ自分と仲間たちを騙して窮地に陥れたつむぎさんをあそこまで懸命に助けようとしたのか。
それは端的に言って、 愛乃めぐみさんが強く、優しく、そして何よりも「たった一度の楽しい」を大事にして、それを伝えられる人だからです。
愛乃めぐみさんがつむぎさんと踊ったのは一度しかありません。しかし愛乃めぐみさんはその瞬間を楽しいと感じた。そして友達になりたいと心から思った。その想いを伝えようと試みた。そして彼女は人のことを思いやれる子だからつむぎが本心から自分たちを騙したわけではないと理解できた。この無鉄砲なまでに想いを伝えようとする純粋さと、他者の想いを汲み取ろうとする思いやりが愛乃めぐみさんの何よりの美点でありましょう。他者を思いやる心とは即ち愛です。しかし愛は時折無力になります。今作の映画は愛が行き詰まって無力になってしまった時、人は何をすることが出来るのか、というテーマだと考えます。





彼女は守りたかったのだ。自分の世界を。愛おしい日々を。それが既に失われてしまったものだったとしてもまだ幼い少女が懸命に愛した日々を切り捨てることなど出来るはずがないだろうが。
俺は憤怒した。運命とは幸せな日々をひたむきに歩むつむぎさんのような美しい人にこうも残酷な現実を突きつけるものなのかと。 
俺は許すことが出来なかった。彼女からバレエを奪った運命を、彼女に対して何もしてやれない己の無力さを。
踊りを失った彼女は決壊を起こしたダムのような脆い存在だった。彼女の中から大切な物がこぼれて流れていってしまう。友も、家族の愛も、そして己の希望すらも全て失ってしまったのだ。
そうして全てを失ったつむぎは自らの殻に篭ってしまう。即ち人形の国、ドール王国だ。
彼女はその国の中でなら幸せでいられる。彼女は仮初めとはいえ、一度はなくした幸福な日々を取り戻すことが出来たのだ。
無論虚構はただの虚構。夢はあくまで夢であり、それは現実ではない。しかし、しかしだ。一度は全てを失った彼女が夢の国の中だけとはいえ、再び笑顔を取り戻すことが出来た。俺にはこの事実を否定することなど出来ない。つむぎの笑顔を否定することなどできるはずがない。絶望の淵に追い込まれ、全てを失ったつむぎがようやく手に入れた幸せな場所なのだ。
だからこそ俺はドール王国を保とうとするつむぎの姿勢を強く支持した。つむぎの笑顔を守るためならどんなことでもすると誓ったのだ。そう、上映中俺はドール王国の人形たちと志を共にしていた。なんと俺はドール王国の住人だったのだ。
しかしプリキュアたち、 愛乃めぐみさんはつむぎの気持ちなんてお構いなしにつむぎを救済に導こうとする。違う、違うのだ。聞いてくれキュアラブリー、つむぎはこの世界から出てしまえば、踊れないつむぎになってしまうんだ。現実を直視させられてしまう。そんなのはナシだ。もうつむぎはイヤというほど現実に苦しめられたのだ。もういいじゃないか、許してやってくれ、開放してやってくれ。キュアラブリーに語りかける俺の声が届くことはなかった。それはそうだ、俺は映画館の席で苦渋の声を呻き立てているだけだったのだから。
俺はドール王国の人形でもつむぎさんの友達でも、プリキュアの協力者でもあの世界の人間でもなかったのだ。俺は、プリキュアの映画を見にきただけのキモオタで、プリキュアに、つむぎに何かしてやれることなどありはしなかった。ただ彼女の笑顔を願うことしか出来ない無力さを呪うしか出来なかったのだ。
愛乃めぐみさんは懸命に説得を続ける。ああ、キュアラブリー、そうか、あなたが代わりに代弁してくれるというのか。あなたはいつだってその持ち前の勇敢さと、賞賛されるべき無謀さで、人の、自分ですら気付かない感情の極地を覗き知らせてくれる。
しかし無力なのだキュアラブリーよ。この世界を出たところでつぐみの足が治る術はない。人間は手の届かぬ事にはひたすら無力である他ないのだ。
ああ、愛乃めぐみさんも同じだ。愛の戦士プリキュアといえど、不可能なことは不可能なのだ。あなたも俺と同じ壁に遮られてしまった。俺は落胆を覚える。彼女を救うことは誰にもできない。だったら彼女はずっとこの夢の国に居続けて、バレエを舞う。それしかないじゃないか。それが一番幸せな選択じゃないのか。
しかしキュアラブリーは諦めてはくれなかった。ああ、気付かされてしまった。違う、愛乃めぐみさんは俺とは違う。俺のような臆病者とは根本的に違うのだと。愛乃めぐみさんは真剣につむぎのことを想っていて、その思考の末にたとえつむぎが傷つくことになったとしてもつむぎがこの仮初めの世界の繭を破って現実に踏み出し、本当の世界で心から笑い合える日々が訪れるを望んでいるんだ。そして何よりも俺のようなキモオタと違う点、それはプリキュアであるとか、住んでいる次元が違うとか、そんな些細な違いではない。愛乃めぐみさんはつむぎと友達になりたいと願って、そのとおりに行動した。彼女は勇者だったのだ。 
俺は涙した、俺はつむぎのことなんて何も考えられちゃいなかった。俺はただ、つむぎの傷つく顔が見たくなかったから、幸せでいて欲しかったからつむぎが夢の世界に居るのが最善だと考えた。しかし、それは翻せばあまりにも自己中心的な願いだったと気付かされた。
悪の怪人が現れる。もはやコイツの名前など覚えていない。つむぎの足を動けなくし、つむぎから踊りを奪ったのは全てコイツの差金だった。コイツを倒せば全てが解決するのだと。
当然俺は怒りに燃えた、こんな奴のせいでつむぎは苦しみ、絶望に飲み込まれ、夢の世界にすがるしか生きる術がなくなった。許せるはずがない。
しかし俺は無力だった。俺はプリキュアの仲間でも、人形の国の王子でもなく、単に映画館の席に座るオタクだったからだ。悪の怪人は強かった。人形の国の王子も愛の戦士プリキュアも倒されてしまう。クソッタレめ、こんな結末を黙って見過ごせるか。俺はプリキュアが大好きなんだ。プリキュアたちが紡ぐ物語はこんなしみったれた絶望の色ではなく、未来への眩しい希望が溢れる愛の色だったはずだ。何かに俺に出来ることはないのか。俺が己の無力さに苛まれ頭を抱える中、首にぶら下げたミラクルドレスライトが真白く光り始めた。俺の右手がスイッチを押していたのだ。
映画館で配布されるミラクルドレスライトにはヒモがないらしいが、物販でミラクルドレスライトを購入すると(税込み650円)通常のミラクルドレスライトとは違い首にぶら下げるためのヒモと愛の宝石を模したストーンが取り付けられているのだ。そうだ、俺は上映が始まる前にネックレス代わりにミラクルドレスライトを装備したのだった。
ミラクルドレスライトはヒモにストーンが取り付けられているため振りまわすのには適していなかったが、そんなことは知ったことではなかった。こんな俺でもプリキュアの為に何かをすることが出来る、応援の光を届けることが出来る。そう知った時に高まりの鼓動を抑えられるほど俺は感情を捨ててはいない。気付けば腕全体を使ってミラクルドレスライトの光を振り回していた。これは俺の祈りであった。映画館に同席した他の人間はミラクルドレスライトを買い損ねたらしくライト持っていなかったから、その人たちの分の想いも伝わるように懸命に振った。振り回すたびにヒモに吊り下がったストーンが顔にベシベシ当たったが、そんな痛みはプリキュアを応援することができる喜びに比べれば些事でしかない。
そんな俺たちの想いが届いたのかプリキュアは覚醒を果たしスーパーハピネスラブリーが生まれた。プリキュアはその力で悪の怪人を討ち果たした。当然だ、大切な人を想う愛の力が身勝手な悪の感情に敵うはずなどありはしないのだ。つむぎの足は無事に治った。ようやく希望溢れる未来に羽ばたくための翼を取り戻せたのだ。
つむぎはリハビリを経たのち、愛乃めぐみさん達の前でバレエを披露する。この瞬間、つむぎさんと愛乃めぐみさんは本当の意味で、幸せに笑い合える友達になれたのだ……。これ以上はないハッピーエンドだ。与えられたものじゃない、彼女たちが自ら望み、勝ち取った幸せなのだ。みんなが笑い合っている、大きな愛が生まれている。彼女たちがこれから過ごす希望で満ちている未来は、今よりもっと大きな愛で世界が満たされていることだろう。俺は満足して映画館を出た。ありがとう、ハピネスチャージプリキュア。そうひとりごちり琵琶湖を眺めながら帰り涙を流したオタクの心には紛れも無い愛が宿っていた。ハピネスチャージされたのだ。


愛は美しい感情でありますが、時折無力になります。そんなとき人は何をすることが出来るのか。
愛乃めぐみさんは言いました。「つむぎちゃんの笑顔を取り戻してみせる。だって、友達だから」
おそらくあの段階ではつむぎは愛乃めぐみさんのことを友達だとすら認識していなかったでしょう。倒すべき敵、自分の世界を壊しにくる悪だと考えていたはずです。それでも、たとえ裏切られたとしても愛乃めぐみさんはつむぎに想いを伝えます「友達だから助ける。友達になりたい」と。

映画ハピネスチャージプリキュアは想いを人に伝えることの大切さを示す、愛に溢れた作品でした。



2014/07/26

ひとりのクオリア、クリア感想


クロスクオリアの感想のようで全然感想じゃないレビューです。
一応ネタバレ注意です。




買ってトールケースを開けるじゃないですか。
いや、いいですね。トールケースというものは。豪華絢爛で所有欲をガッツリ満たしてくれるフルプライスの箱もいいが、やはり自己主張のおとなしい慎み深い清らかなトールのケースというものは見ているだけで心が洗われるようです。
それでね、ケースを開けたらディスクがまた綺麗なんですねこれが。ひとりのクオリアとふたりのクオリアのDVD、それに対応する各ドラマCDが1つずつ入った計4個のディスクがキラキラと僕を迎えてくれるんですよ。
ディスクは内包した世界の美しさを示すように輝いている。
ディスクが綺麗ですとね、「僕はこれから綺麗なゲームをプレイするんだーッ」という感情になりますから、とても清らかな心でエロゲーを受け入れることが出来る様になるわけでして、この瞬間こそが決して激情ではない、安らかな高揚の極致ですね。

で、本編の話になりますが百合最高ーッ
プレイしてる間100万回くらい「百合最高!!!」って叫んだ。アパートの隣人がオカマなのでいつ怒りにくるかビビリながら、しかし全力で絶叫した。百合最高!!!!!
100回くらい絶叫してその倍の数は赤面するくらいには最高の百合だった。
とりあえず百合最高!!!という面に関してこれ以上言葉を費やす気はないです。

で、プレイし終わった後まあ僕は色々なことを考えましたよ。
全体的にイベントの規模が小さいとか、消化不良だとかこんなんだったら何度も延期するなとかシステム周りもっと力入れろやとかパッチでセーブデータ消えるとか聞いてねーぞとか演出がしょぼすぎるとか特に意図がないなら立ち絵ぐらいちゃんと表示しろとかまあミドルプライスならこんなもんだよねとか授業頑張ってきますとか言ってるけどあれだけ学校休んでたらついていけなくなるだろとか…

ネガティブなことばっかですが別にオチにそこまで拒絶反応を示したわけではなく、クオリアという作品にはEDがないんですよ。まだ終わってないよ。おわりのクオリアで終わりだよ。ってことなんだろうけど。
普通のエロゲだとED曲が流れている間に「ああ、この作品はあそこが良かったなぁ」などと楽しかった思い出を反復して自分の中で作品の立ち位置だとか感想を固めていくんですが、クオリア急に終わりますからね。
普通に強く困惑したし、良かったところ探しに没頭することすら出来なかった。正直この構成はひどいと思う。

そうやってプレイ後はそんな感じのそれっぽい評価を考えていたんですが、言うまでもなくそんな思考に価値などないし、僕が信じるべきなのは、ゴミみたいな脳みそで付けた作品の評価なんかじゃなく、ただプレイ中に彼女たちの日常を見て幸福の繭に包まれていたあの時間だけなのです。僕はあの時間だけを信じればいい。
僕はあの日々を本当に心から楽しんでいたんですよ。あの瞬間は紛れも無く幸福の極致でありました。
そしてそれほどに楽しかった日々が作品の精度を測るなんていう無感情な作業に貶められている事実に僕は耐えうる事ができません。
僕は正しい批評なんかがしたいわけじゃない! もっと、もっとあの世界を楽しみたいんだ……。その情景を汚す要因は何があっても排除しなければなりません。よってこの作品に対する批判の一切を受け取らないという態度を取ろうと思います。この作品を正当に評価することで失われてしまう黄金があるのならば、僕は批評を忌避せねばなりません。黙ってふたりのクオリアをプレイした後、姿勢を正しておわりのクオリアを待ち続ける。僕が取りうる行動はそれだけです。
信者気質と言われればそれまででありましょう、しかし僕は別に10mileの信者というわけじゃない。というかあの会社は確実に潰れる。潰れろ。
ただ僕は彼女たちの日々……。牛丼を食べに行ったり2人でゲームをして遊んだりした、あの日々の信者なのです。

もうこの作品に対して批評なんてものはいらないでしょう。少なくともおわりのクオリアが発売されるまでは。
僕は気に入った作品に対しては何がなんでも精査し抜いて肯定の要素を見つけまくって理論武装するような人間なのですが、流石にクオリアに関しては色々と足りない点が多すぎます。よって、目を瞑ります。
我々は彼女らの柔らかな日々に祈りを捧げているだけでいい。ただ愛おしい女の子たちの日常を見て「はにゃーん」となっていればいい。
祈りの供物は牛丼がいいでしょう。
彼女たちのハニカミに、我々はただ牛丼を捧げるだけでいい。
今はまだそれだけでいい。

2014/07/08

ご注文はうさぎですか? 感想。

というわけでね、ご注文はうさぎですか? 最終話のほう、号泣させていただきましたけれども。
いやぁ、美しい愛情の物語ですね……。
愛と言っても性愛や家族愛という類の愛ではない。他者と他者の関係の中に生まれる確かに尊い感情、そういった愛の物語なのである。

ごちうさを論考する際に重要になるのはキャラクターの関係間の非閉塞性であり非親密性である。彼女たちは何か特別な繋がりを持っているわけはなく、ただあの都市の喫茶店に集うことで知り合っただけの関係であるということです。この位置は客観的に見るならダスマンとも言える状態でありましょう。

しかしココアさんとチノさんは共に過ごす時を経て、やがて本当の姉妹であるかのような関係性に到達するのです。その地平に至るまでの過程の描写はシームレスであり、また描かれる他者性の中にありながら他者性を捨象した空間において描かれる他社間における愛情の物語に我々は感銘を受ける……。それはまるで飛 べない鳥が空を泳ぐ白鳥を見つめる様の様に……。要するにオタクの憧憬であるということ。

きんいろモザイクやゆゆ式は関係性の中でやりとりされる本質的かつ性愛の関わる余地のない密接な愛情を描いていたけどごちうさは関わりを持たない者同士が愛情を補足するに至るまでの物語でしょう。

あくまで1話が始まった時点ではココアさんは誰とも知り合いじゃなかった。この事実が重要です。
一時の癒やしを与えることをレーゾン・デートルとする日常系アニメの1話において誰とも関わりを持っていない状態を描写することの恐ろしさは語るまでもないでしょう。しかしご注文はうさぎですか? はそれをやってのけた。
それは無知ゆえの行為なのかもしれないし、意図的なものかもしれない。しかし確実に日常系を摂取しようと企む層を払ってのける意志なのです。
私はこれを勇気の行為と賞賛しましょう。GJ部でさえこの領域には踏み込めなかった。
最初はたどたどしかった関係が終盤になるにつれて円滑に、いわゆる身内のノリが形成されてきてその空間を存分に享受できるようになるというのは日常系にお ける醍醐味のようなもので、ほぼ全ての日常系はこの効果を狙って演出を行っています(漫画家の今井哲也さんはこの効果のことをきららコードのデコードと名付けましたね)
勿論それはごちうさにおいても例外ではなく、しかし確実に変容している点が、繰り返しになりますが主人公のココアさんは初期において誰とも知り合いではなかったということです。




他の日常系が関係性を積み重ねるというスタイルを取っている中、ごちうさにおいては関係性を初期から構築していくという表現方法を採用しています。
この効果の最大のデメリットとして1クールだとそもそも本題の関係性を積み上げられないという点です。
最終話においてもチノさんがココアさんのことを寝ている間に「お姉ちゃん」と呼んだだけで、それ自体はある種大したことではないです。
ここで着眼すべきは、1話が始まった頃は知り合いですらなかった2人の関係性がここまで接近したという事実であり、私はその事実に気付いた頃、この物語を尊き物語として扱おうという決心をしました。

ご注文はうさぎですか? を批判する際に持ちだされうるのがごちうさにおける都市の非実在性や関係性の非密着性です。これについては弁解のしようがなく、紛うごとなくごちうさの構造上の欠陥と言えるでしょう。
しかしそれさえ乗り切ることが出来たならごちうさはあなたにとってかけがえのない友愛の物語としてクリティカルな憧憬を与えるはずだ。

これでいいですか。はい。










オマケ

4話の作画は14年アニメ屈指の神作画












































当ブログは天々座理世さんを応援しています。

2014/04/26

ランス9感想

ランス9ヘルマン革命 正史ルートクリアしました。
笑いころげたし泣きまくったしラスボス戦は最高に熱くなったんですが、まあプレイしてる最中に「あっ、これは評価割れるな」と思ったし実際世間もそんな感 じの評価なんですが僕は典型的なランス信者で、ランスの物語は感情論だけで絶賛するのでそこらへんよろしくお願いします。

あ、だから全力でネタバレします。





ランス9ぶっちゃけ期待してなかったんですよ。多分戦闘はダレるんじゃないかな~~~ってずっと思ってましたし実際相当ダレた。
戦力性もクソもない。キャラ突っ込ませて適当に必殺技ぶちまけるだけ。
肝心の浮遊要塞戦闘もほとんど使わないし独自性も拡張性も一切ないです。
ゲーム要素については完全な回帰ですねこれは。元より誰も戦国マグナムレベルの戦闘は期待してないでしょ。
期待した方はじゃけん次回作に貢ぎましょうね~。

練度の高いシュミレーションRPGなんて現代で作るのは不可能なんですよね。
ここらへんランス9のレビューで書いてしまうのはどうかと思ったけど、必要なことだとも思ったので後ろに書いてます。

とにかく戦闘に鬼畜王戦国クラスの緻密で爽快で明瞭なものを期待して文句言う人は相当いると思います。
まあこれに関してはね、シュミレーションRPGなんていうジャンルにしたアリスソフトが全部悪いわけですよ。
名作と謳われてるママトトですら戦闘はざっくばらんな仕上がりだったわけだし
その意匠を受けつぐ形で作ったらそりゃこうなる。
あと下手に戦略性があるかのように宣伝したのも悪い。
戦略性、ないでしょ。戦術性はあるけど戦略性は皆無です。だいたい運。
強いアイテムが手に入るかどうかは運だし、手に入ったとしても戦場で機能してくれるかどうかも運だし(攻撃力うp系は安定して強いけど)
イベント戦闘も出撃必須キャラを育てる必要はなくて、ただ運で回避、受け流ししてくれるのを待つだけだし
武器の強化が成功するかどうかも運。挑発が決まるかどうかもアイテムつけなきゃ運。
大規模戦闘はどれだけ回避受け流しが発生するかだし、敵のねばりが発生するかどうかも運。
勝てなかったー、ぐわー、もう一回だー! ってチャレンジすれば何の対策もしなかったけど勝てちゃった。
なんてザラにあります。

戦国ランス最高難易度のことを一部の人は「暗殺ゲー」だとか「運ゲー」などと呼びますが(別に戦国ランスは暗殺ゲーじゃないけどね。暗殺に頼らなくても☆5正史42ターンでクリアできる。もっと手裏剣使え手裏剣)
今作、ランス9は素で運ゲーをいってしまってるわけです。
ランス5Dなんかは最初から「このゲームは運ゲーです!」と言い張ってたわけなんですが
ランス9は拡張要素、戦略要素があるように見せかけておいてその実大半が運です。
これが批判される最大の要因になってると思う。
だから戦闘に戦略性はありません。
それこそランス3.4の戦闘を思い出していただきたい。
あんな感じのSRPG戦闘だと思えばいいんです。
決して戦略性、自由性に富んだシュミレーションRPGなどではないです。
3.6.9と流れを見ていけば今作がただのRPGだということがわかります。

だから僕は戦闘に一切期待してなかったし実際その通りになったので
戦闘という要素を省いてランス9感想書きます。




ランス9ヘルマン革命という作品、一言で言ってしまえば「英雄譚」であるし、ざっくり切ってしまえば「壮大な身内ネタ」
英雄譚の方から書いていきましょうか。
「ランス」という作品自体典型的な犯罪者のすごい強い主人公がファンタジー世界でエロエロしまくるという典型的な感情移入型エロゲーであり、主人公=ランスという構図になっているんですが、今作ではド正面からそれをぶち破ってきましたね。
勿論このランス=プレイヤー という構図、ちょっとでもランスシリーズを遊んだ人ならすぐに否定します。僕だって否定する。
ランスシリーズはランスという極悪な主人公を笑って、時には感情移入にして共に盛り上がる作品だと。つまりランスとはキャラクターであり、ランスに自分を投影するなんてことはありえないと。
けど、暗にその構図はありました。それは選択肢や行動コマンドです。
そう、ランスシリーズにおいてプレイヤーは選択肢を選ぶことでランスにヒロインを犯させたり、何もせず逃したり。
世界を救う王様になったり、逆に世界を滅ぼす魔王にならせたりしていたわけです。
つまりプレイヤーがランスを操作していた。まあゲームだから当然ですわな。
これは行動コマンドにおいても同義です。プレイヤーは北の国か南の国どちらを先にランスに攻めさせるか決定することができた。
2や3などの一本道のRPGでさえ自分で行動を選んでランスを操作することができた。つまりランス=プレイヤーの図は確かに残されていたわけです。

今作、ランス9はそれを徹底的に破壊する。
そもそもランス9には選択肢なんて1つも存在しないんです。だからプレイヤーは何も決められない。
戦闘をどう戦おうと結末には影響しない。
プレイヤーがシナリオを決定できる要素といえばバッドエンドの陵辱ルートと、どのヒロインとHするかの猿玉振りぐらい。
だから本編ではあますところなくランスの活躍が描かれる、全ての行動をランスたちが決めて、プレイヤーはちょこっと運ゲーの戦闘を操作して革命を成し遂げる。
そこにプレイヤーの意図が介在する余地はない。プレイヤーはどのキャラとHしてどのルートに行くか、誰のバッドエンドを見るか。そういう形でしか物語に介入できない。
これを英雄譚と呼ばずしてなんと呼びましょうか。我々エロゲープレイヤーは物語の決定権を剥奪され、全てはランスに委ねられた。プレイヤーはエッチの方向性だけ示していればいい。
ここにランス=プレイヤーの図式は崩壊しました。ランスはプレイヤーの制御を離れ、好き勝手に物語を進めていく。
ランスを操作する唯一のシステムだった選択肢はもう存在しないのだから。
この選択肢を登場させない。という形式はまさしく今までのランスシリーズ全てに対しての革命といえるでしょう(こういうこと言っておいてなんですが次回作あたりは普通に選択肢復活してると思います)


この作品を語る際に「ママトト」という作品の把握は欠かせない。
別にプレイしてなくても楽しむことはできるけど語るのには本当に欠かせない。
ゲームシステムからシナリオ、キャラクター(厳密に言えばアリスソフトお家芸のスターシステムなのだが)から最終戦の構図、BGMまで随所にママトトの血が混じってるのがランス9なのだ。
だからママトトユーザーの僕なんかは最終戦のBGMで「ウッヒョー!!」となるし
そうでない人は特にBGMを気にせずEDを迎えるんですよね。別にこれは今作に限ったことじゃない。
ランスクエストなんて5Dへのオマージュが随所に含まれていたわけだし。

ただ今回は特に過去作ネタ、ママトトネタが多いんですよね。
だから人は言うでしょう。
「アリスソフトは新規ユーザーのことを考えない老害だ」
「ちゃんと新規ユーザーにも把握しやすい設定やシナリオのゲームを作れ。パットンの放埒時代なんかしらねーよ」
そのとおりですそのとおりです。ゲーム中にも解説やヘルプは登場するけど、それでは十分といえない。
闘神や聖魔教団の説明はどう聞いたって不足だし
パットンの成長なんて過去作をやってないと実感することはできないでしょう。
そもそもパットン自体最近のメインシリーズだと6にしか出てこないし
戦国から入った人なんて「パットン? 誰それ?」状態でしょう。

だからこれから何度も言いますが、ランス9は内輪ネタだらけの作品です。
ランス過去作やママトトをプレイした否かで没入度は大きく変わるでしょう。
例えば僕なんかはヒューバートが奥さんの墓壊されて怒り狂うシーンでボロボロに泣くんだけど
鬼畜王やってない人は素通りするだろうし、シーンの意図もぶっちゃけ鬼畜王やってないとわかりづらい。
要するに欠陥品なんですよ。ゲームとして。内輪ネタでしか盛り上がれないゲームなんて
欠陥以外のなにものでもないでしょう。
その批判はあってしかるべきだと思います。

でも、それでいいんですよ。内輪ネタでいいんですよ。それこそがランスシリーズが目指すべき道だとアリスソフトはランス9で鮮烈に示しました。
内輪ネタでも、笑って、泣けて、叫べて、熱くなる。そんなゲームこそがこれからのランスだと
アリスソフトは示したわけです。
だからこれらの内輪ネタオンパレードも全て意図的なものでしょう。

(TADAさんがサボらなければ)もうシリーズも長くない中、ランスはこれで突き抜けますよ。
ついてこれる奴だけついてこい。最高に熱くさせてやる。
ついてこれねぇ奴は無料で配布してる過去作やって勉強してこい。
そのうちランス03も出すからよ、リーザス軍人との馴れ初めやパットンの放埒時代が知りたい人は買ってね♡。ということでしょう。
だからパットンの放埒時代がまるで描かれないのも、リーザス武将たちがどういう人なのか説明がないのも
全てはランス03を買わせるためだったんだよ!!!!

話がそれた。要するにランス9は「これからのランスはこうでいきますよ」というお触れなわけです。
おそらくランス10も内輪ネタを大量に詰め込んだ、旧来からのファンでも把握しきれないような
設定の変化や新しいキャラが大量にでる作品になるでしょう。
けどね、それでいいんです! ランスはこうなんです!
分からない奴は容赦なくおいていってやる! と
ランス9とは、そのメッセージなんです。

ゲームとしてはおよそ不完全な運ゲーでしょう。シナリオは過去作を十分に遊んでないと把握しきれないような欠陥品でしょう。
しかしそれは欠陥品であっても、旧来のからのファン全力で楽しませてくれるものです。これは断言できる。
ランス初期、鬼畜王から続くファンの期待に全力で答えた作品。
それがランス9であり、それに対して「新規にはシナリオが分かりにくい」「運ゲーすぎる戦闘」などと言ってケチをつけてしまうのは不粋というものでしょう。
(いや勿論そういう批判はあってしかるべきですが)

ランス9とは、アリスソフトがファンへ全力で贈る18年越しのアンサーです。
それを大事に、確かに噛みしめて、僕は高らかに叫ぼう。
アリスソフトに信頼と感謝を込めて――


「あてなちゃんユニットで使わせろや!!!!!!!!!」



しょうもないことしか書いてないんで真面目にランス9語ります。
シナリオはすごい良かった。前述の通り内輪ネタだらけで進むシナリオですが、それなのに新規ユーザーでも楽しめる形に落としこんだのは素晴らしいの一言。まあ安っぽいんですけどね。安っぽいんですよ。だから良い。
音楽はshadeさんが参加しないということで不安があったんですが、杞憂に終わりましたね。
本当に気合が入ってる素晴らしいBGM揃いだった。
ここにshadeさんが加わっていれば……!
と思うこともないですが、とにかくBGMは名曲揃いです。
最終戦にRunning to the straightのアレンジとか熱いに決まってる。

絵は頭身戻りましたね。僕はあの頭身が好きでした(半ギレ)
まあCGは素晴らしい仕上がりだと思います。あてなちゃんのミニキャラ可愛すぎ。

エロシステム、全部飛ばしてるから1つも見てない。
かなみちゃんのデレは本当に心臓がバックバクした。
腕くんでデートする写真誰が撮ったんだ。
あのCGが販売特典で良かった。

戦闘はまあ上でボロクソに言ってますけどそこまで悪いわけじゃないです。
楽しいよ。楽しいんだよ。
ただ、過度な期待はするなよってだけです。
パットンの必殺技が武舞乱舞じゃないのずっとムカついてたんですが
最終戦でああもやってくれると全部許しますわな。

僕は最終戦、当然ランスにトドメさそうとしたんですよ。
ランスシリーズユーザーなら分かると思いますが
ラスボスをランスのランスアタックで倒すのはお約束であり、これをやらないと落ち着かないんですよ。
多分皆さんもそうだと思う。
だから僕はランスでトドメをさした。すると盾が復活する。おいおい、また倒さなくちゃいけないのかよ。
パットンが話す。俺にトドメをさせてくれ。と。
ありえんでしょう。ラスボスにトドメをさせるのはランスの役目であって、パットンがやっていいことじゃない。いやだいやだ、ランスでトドメがいい~みたいなことを僕は思うわけですが、そこでランスが叫ぶんですよ。
行け! パットン! って。
じゃあ僕もPCの前で叫ぶしかないじゃないですか。
お前が決めろ! 革命者パットン! って(最高にキモい)

このね、主人公は絶対にランスなんだけど最後にパットンがケリをつけるっていう持っていきかたですよ。
パットンがやらないといけない。よし、じゃあお前がやってこい! とプレイヤーに考えさせるに至るまでのパットンを魅力的なキャラとして描ききった。
僕みたいな「ラスボスは絶対にランスのランスアタックで倒したい!」みたいなこと考える信者ですら、最後はパットンに託せると考えたんですよ。
パットンにならこの国の未来を託せると(キモい)
結局主人公はランスじゃなくてパットンなのだったと思います。だからランスの行動を決める選択肢がなかった。何故なら、主人公はパットンなのだったのだから。











ランスとあんまり関係ないです。シュミレーションRPGについて。

……真面目な話今の時代シュミレーションRPGを作るというのは本当に難しいことだと思う。
おそらくみんなが(僕が)望んでいるのはSFCファイアーエムブレムやタクティクスオウガのような緻密な戦略性、キャラ性、自由性に富んだゲームなんだろうけど、今の時代それをやるのは無理なのだ。
すごい必殺技やCGドバドバー! とやらないと絵面が地味だから宣伝もしにくいし、売れない。そもそもチマチマ相手の移動距離と射程を計算して1マスづつ兵を並べていくようなゲームは今の時代誰も遊んではくれないだろう。
最近の若者は(自分も若者だけど)時間があったらソシャゲ、SNSの時代なのだ。コンシューマ、PCゲームなんてパッと遊んで面白さが伝わらなかったらすぐ投げ出してしまう。
だからこそ大味な範囲攻撃ドカーン、必殺技バシューンなシュミレーションRPGが乱造される。その方がインスタントに面白いから。某エムブレム新作もそのような出来だった。
しかし戦闘バランスを大味にするということはシュミレーションRPGが元来持っていた
「自分で戦略を考え、キャラを動かし、自分が育てたキャラが成長していく様に感情移入する」
という楽しみを奪うということに他ならないのだ。もう本当にシュミレーションRPGというジャンルは終わりを迎えているのではないだろうかとさえ思う。
確かに派手な技を使って魅力的なキャラクターが敵をなぎ倒していくさまは心地がいいだろう。私は無双系のジャンルも好きだから否定はしない。
しかしそれによって、SRPG特有の戦略を育成方針を決めて、そのとおりにいった時のあのとびっきりの快感、失敗した時の悔しさ、育て上げたキャラが活躍していく嬉しさが失われているのも確かなのだ。
シュミレーションRPGゲーマーはそれらの要素を心底敬愛しているものなのに。

もはやほぼ全てのシュミレーションRPGは大味な魔法、必殺技戦争となってしまった。全ての元凶はそう、SNSやソシャゲの台頭によって
現代人は1つのゲームをじっくり攻略するということをやらなくなっていった。
何か1つのことに、盲目的に熱中できる期間というのは長くない。多くは小学生から高校生の間に起こり、そして消えてしまう情熱だ。
その時代にどんな遊びに熱中したかで、人間というのは決まってしまうものなのかもしれない。

現代の若者の情熱はソシャゲに傾けられ、シュミレーションジャンルのようなじじくさいジャンルは時代の変化に取り残されてしまった。
誰が悪いとも何が悪いとも言わない。ソシャゲによって育まれる感性もあるだろう。
仲間と共に語り明かすのは楽しいだろう。全て時代なのだ。受け入れなければならない。
だけど、僕はその世界にあの緻密なシュミレーションRPGが存在しないという事実に、寂しさを感じてしまう。

僕は現代の若者に問いたい。余暇を楽しく過ごすためのゲームによって時間が奪われ、ゲームにさえも時間を惜しむようになってまでする「遊び」は本当に楽しいのか?
買ってすぐ投げ出してしまうような、そんな遊びのスタイルで本当にいいのか。
こんな時代だからこそ、時間という荒波に抗い、誠実にゲームと向き合うことが大切になると思う。
勿論つまらなかったら投げ出していい。それはプレイヤーの権利であり、現状、市場の大半を占めるプレイヤーの考えだ。
だけど、だけど今一度、ゲームという娯楽に対して、もう少し誠実になってほしい。
もう少しだけ、ゲームを見てやってほしい。それで見つかるものは必ずあるはずだから。
ところでなのはINNOCENTのなのはちゃん可愛すぎ。